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【イベントレポート】いいまちってどんな街? 「カフェ 哲学びより 第一回」

国分寺で「まちづくり」を考えるイベントが開催された。対話・探究ラボSCiPによる「カフェ 哲学びより」である。今回のテーマは「いいまちってどんな街?」で、参加者同士が「まち」をめぐって哲学対話を行った。今回筆者もイベントに参加したので、この記事では当日の議論をまとめながらあらためて「まちづくり」とは何か考えてみたい。

Photo by Peter McConnochie

哲学対話とは、参加者同士が語り合うことを通して哲学的に深め合う営みだ。今回は、堀越耀介氏(早稲田大学大学院政治学研究科 / 対話・探究ラボSCiP)がファシリテーター(進行役)を務めた。

どのように「まちづくり」を行うかを検討するだけでは、大切なことを見落としてしまうことがある。あらためて「いいまち」とはどういうことか、誰がどんな基準で「いいまち」と評価しているのかを、一歩引いて考えてみることで「まちづくり」を行う上で大切なことに気づくかもしれない。

※今回のイベント会場は、国分寺のマンション「プラウド国分寺」に設置されたカフェスペース「カフェといろいろ びより」。マンションの住人だけではなくさまざまな人々が利用できる多目的スペースである。

住みたい街と遊びに行きたい街は違う?

さて、ファシリテーターの堀越氏は「自分の住んでいるところはいい街か」という問いを対話への導入として提起した。都心に住んでいる人、郊外に住んでいる人、地方で育って都心に住んでいる人など、それぞれの経験を共有しながらいい街の基準をめぐる対話が始まった。

そのなかで出てきた論点は、住むのにいい街と、行くのにいい街は同じとは限らないということだ。寝るため、仕事をするため、遊ぶため、観光するため、それぞれの目的に応じて、よい街の基準が変わってくる。例えば海上に浮かぶ都市であるベネチアは、観光するのにはいい街であるが、住むのには不便であり、住むのにいい街とは言いにくい。

住むためにいい街の条件は、都会へのアクセス、治安の良さ、閑静さ、スーパーや病院の多さ、交通規制、自然の多さなどが挙げられた。それは概ね、利便性ということに集約される。施設の有無だけでなく、条例の整備なども考慮する必要がある。

それに対して、楽しむのにいい街の基準は、単なる利便性ではない。そこでは、好きな街、楽しい街といったように街への愛が大切になってくる。街を愛するという論点が出たため、街を愛するという場合に具体的には何を愛しているのかをめぐる議論にシフトした。

そこで出た論点は、街そのものを愛することと、街にいる人を愛することは区別できるというものだ。街が好き、街に愛着がわくという場合でも、実際には家族や街でともに過ごす友達や馴染みの店主といった人々が好きであることが多い。あるいは自分がそこで育ったり月日を過ごしたという思い出があるから、街が好きになっていることが多い。

一方、観光地の場合はその場所に行くこと自体が目的であり、その街を好きだと感じた場合には人ではなく街を好んでいると言える。

しかし実際にはこの二つを切り分けることはできない。観光地であってもそこで生きている人たちとの交流が大切であるし、そもそも街は単なる土地や行政区分ではなく「人あっての街」であって街の構成要素には人々の営みが含まれている。

人ではなく街が好きという場合には、街の歴史、文化、伝統といったものを好んでいることになる。それを「街の個性」と名付けた。個性は、単にその街にある何かをするための機能(交通、生産、消費をするための機能など)だけではなく、その街が持っている特殊的な性質を意味する。それは自然によって、そして人間の営みによって形づくられたものだ。

Venezia / by Pedro Szekely

Venezia / by Pedro Szekely

どのようにして人は街の個性を愛するということになるのだろうか。街を楽しむのにいい街と感じる条件、基準は何なのだろうか。

街を好きな理由は単なる後付け?

わたしたちが街を愛するようになる理由が議論されるなかで、いくつもの論点が出てきた。まず自分が生まれ育った街に抱く「愛着」についてだ。それは「落ち着く」「親しみがある」「いい街だ」というような感情のことである。

参加者の一人は、あくまで自分が生まれ育ったという事実があって、そこから後付けとしてその街を好きな理由を考え出して自分を納得させるという心理があるのではないかと指摘した。

一方別の参加者は、生まれ育ったから好きである理由を後付けするということができるのも、生まれ育つ中でその街の魅力を見出したからではないかと反論した。その根拠は、実際に自分の生まれ育った街を嫌いになる人も存在するからだ。生まれ育った街の場合、その街について知る機会が多いため知る内容次第で好きにも嫌いにもなるということだ。

例えば広島には、焼け野原から復興したという人の営み、街のストーリー、さらに広島が背負う使命といったものが共有されているという特殊な性質がある。そのことが広島を大切に思う人々を生むとともに、そこに見られる被害者意識や選民意識を嫌う人々を生むことになる。

また街の歴史だけではなく、自分の家族や友達といった小さなコミュニティの歴史も街へに愛着を生む原因になる。そして個人の歴史と街の歴史は切り離すことができないものである。

街のイメージはどうやってできる?

街を愛するというときの街とは何なのだろうか。観光地はもちろん、自分の住んでいる街でも、わたしたちは自分の生活で触れる、その街の限られた範囲しか知らない。わたしたちは街のほんの一部しか知らない

参加者の一人は、わたしたちが「街」と呼んでいるものは、経験によって得られた知識や、単なる地理的な区分ではなく、一つのイメージであることを指摘した。

そこで、街のイメージがどのようにしてできあがるのかが問題になった。

まず挙がったのが、その街に独特の雰囲気の感覚というものだ。情報として知るものと住んだり滞在したりすることで知るものは異なる。街の中で身体全体で感じとられるものは、「空気の色」や「風土の感覚」とも呼ばれた。それは空の色、土の色、気候といった自然的な条件、街並みといった文化的な条件が重なることによって醸し出されるものであり、それを捉える感受性は人によって異なる。

第二に、街のイメージを作るものとして、シンボル、あるいはランドマークが挙げられる。例えば原爆ドームのようなものが戦後の広島のイメージをまとめる上での一つの中心となっている。

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Hiroshima Peace Memoral / by cotaro70s

シンボルの機能というのは、数あるものの中の一つのものが、他の多くのものを代表することだ。街のイメージは、何々市や何々区といった行政区分ではなく、ランドマークやシンボルを中心にしてできあがっている。

国旗もシンボルの一種だ。星条旗で多様なアメリカの社会や文化を表すことはできないが、星条旗はアメリカの州を表現しておりアメリカのイメージの一つの中心となっている。原爆ドームのような特別なランドマークは多くの地域には存在しない。たいていの場合、街のイメージの中心となるのは鉄道の駅、あるいは駅前の風景である。ゆるキャラも親しみやすい街のシンボルである。

第三に街のイメージを構成するものとして、街づくりのスタイルが挙げられる。特に山を切り開いて作られた新興住宅街には、開発にかかわった大企業(西武電鉄など)が街づくりを行う際のデザインのスタイルが大きく反映している。例えば駅舎、デパート、文化施設、住宅のデザインにそれぞれの企業のスタイルを感じることができる。

第四に街に関するストーリーも街のイメージを構成する大切な要素だ。ストーリーには、広島の復興のような史実にもとづくストーリーもあれば、トトロのようなフィクションの舞台となることで生まれるストーリーもある。

六本木と巣鴨、どっちが魅力的?

このように議論を重ねる中で話題は、今回のイベントのテーマである「いいまちってどんな街?」に戻ってきた。そして、いい街かどうかを判断する基準を考える上で、個人の価値観と街のイメージの関係がテーマとなった。

そこで重要な価値観の違いとして指摘されたのは、他の文化を吸収しながら新しいものを作り出すこと長い歴史の中でできあがっているものを大切にすること、そのどちらを重視するかという基準の違いだ。例えば六本木は、海外の文化を取り入れながら常に今存在しないものを作り出そうとしている。

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Roppongi / by Tighten up!

一人の参加者は、六本木は常に海外のものを追いかけていて背伸びしている、無理している、落ち着きがなくて好ましくないと語る。外国語の店名で欧米風の建築物ばかりが立ち並ぶ街並みは自然体な感じがしないという。

欧米では、欧米風の建物や言語は、それまでの歴史の中で生まれてきたもので無理していない自然体なものだという印象を与える。しかしそれが異なる歴史をもつ日本に移植される時、日本のこれまでの文化との間でちぐはぐな印象を生んだり無理をしているという印象を与える。

それに対して、逆にそういう六本木の新しいものを吸収し、常に新しいものを目指すところに魅力や心地よさを感じるという参加者もいた。そして巣鴨のような昔ながらの文化を大切にする街には親しみをあまり感じないという。

Sugamo Tokyo by Bracken73

Sugamo /  by Bracken73

現在の札幌ラーメンの原型ができたのが戦後であるように、どんな伝統にも始まりがあること、そして外から入ったものも時間とともに馴染み、伝統となる。その意味ですべての文化は、常にできあがりつつあるもの、中途段階にあると考えられる。そして新しいものを目指せば目指すほど、中途半端さやちぐはぐさが大きく現れることになる。

また単にちぐはぐな仕方での異文化の取り入れとは異なる、統一感をもった自文化と異文化の統合という道も存在する。例えば、カツ丼やアンパンのように。

このような議論の中で明らかになったのは、新しいものを重視するか、伝統的なものを重視するかが、大きな価値観の相違として存在することだ。そのため誰にとっても魅力的な街を作ることは難しいということになる。

遊びに行く街は自由に選ぶことができるが、住むところは必ずしも自由に選べないため、住人同士の間、あるいは住人と来訪者の間での価値観の対立は深刻なものにもなりうる。

なぜ多くの街おこしはイマイチなのか?

また、重要な論点となったのは、街を作る側の意識その街を利用する側の意識のずれだ。

街のイメージを作る側の筆頭は行政大企業だ。例えば京都では店舗に使える色彩を制限し、コンビニなどのチェーン店に茶色を用いることが求められている。また意欲のある市民も街づくりに参加している。いずれにせよ、街をデザインする人たちはブランドイメージを考え出して、それをもとに統一感のある街を作ろうとする。

それに対して単に街を利用するだけの人には、街を作る側の考えは見知らぬもの、縁遠いものである。実際に街をデザインしている人たちは、街にかかわる人の中のほんの一部である。

行政や企業主体の街おこしが多くの場合、イマイチなものになりがちなのも、作る側と受ける側の温度差によることが多い。街の作り手たちがとってつけたように、祭やゆるキャラやご当地アイドルなどを作っても、街を利用する側の意識とはシンクロしないものになることが多い。

街は一方では、権力者や市民によって統一感をもったものとして「つくられる」ものだが、それとともに人々がおもいおもいの活動をすることで「できてくる」ものである。

こういう議論の中で、いい街の一つの条件が見えてきた。それは、街をデザインする人たちと街を利用する人たちが、よいバランス相互作用を起こしながら、街のイメージに関する合意が形成されつつあるということだ。

統一感を追求すると不寛容になってしまう?

そして最後に重要な論点として話題となったのは、寛容さだった。

街のイメージを統一感のあるものとして作ろうとすればするほど、そのイメージに合わないものは、場違いなものとして排除されることになる。例えば国立では、パチンコ店や風俗店などを駅前に作ることが規制されているという。

条例や自主規制などによって、きれいな街や調和のとれた街を作る場合、それを望む人たちは住みやすさや楽しさを得ることができる。

しかしその時、雑多なものやカオス的なものは失われてしまう。参加者の中には、新宿がクリーンになってしまいつまらなくなったことを嘆く声もあった。その参加者は、現代しばしば見られる、街づくり=街のクリーン化だという考え方が、不寛容で息苦しい街を作ることになるのではないかと危惧する。
(この街のカオスの問題は、渋谷をめぐる対話のなかでも重要な論点となっていた。)

また、広島のように共有された街のイメージが強固である場合にも、そのことが排他性や同調圧力を生む可能性があるという負の側面がある。したがって、単純に街を作る側と街を享受する側が、同じイメージを共有していればよいとも言えないのである。

また日本の街は景観を保持する傾向があるヨーロッパに比べて、雑多に寛容であり、それが日本のイメージを構成しているという声もあった。下北沢のような街も、ごちゃごちゃ、雑多であることが一つの統一感のあるイメージを作っている。

Shimokitazawa / by Carlos Donderis

Shimokitazawa / by Carlos Donderis

しかしそういう場所では、逆にごちゃごちゃしていることを嫌う人たちが妥協を強いられることになる場合もある。寛容の問題を考える時、統一感を合意によって形成するというプロセスに隠れている問題点が見えてきた。

このように議論が盛り上がって来たところで、哲学対話は時間的に打ち切りとなった。ファシリテーターの堀越氏は、締めくくりとして「オープンエンド」(開かれた終わり)という言葉を紹介した。それは、哲学対話では一つの結論が出ることはなくその対話を踏まえながら次の探究が始まるということである。

カフェ哲学びよりは、今後も定期的に開催されるという。今後の予定は、カフェといろいろ びよりのホームページに掲載されることになる。