Opinion

熱狂は続いている。ポケモンGOのディープな現場に迫る。

先日、「ポケモンGOを哲学する。あの熱狂は何だったのか」という記事を書いた。その記事へのコメントをいただく中で、記事には書かれていなかったポケモンGOのディープな現場に目を開かされた。

あの記事を書くとき、できるだけ多面的になるように心がけたつもりだった。だが、やはりレベル21のミーハーユーザーの視点から見たポケモンGOだったようだ。

ポケモンが語りかけてくる

まず、自分はポケモンに名前を付けているという趣旨のコメントをいただいたという話から始めよう。

あの記事では、筆者を含むそれなりの数の人がポケモンに名前を付けないのはなぜかという切り口で論じた。

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しかしそのようなプレイは、一つのプレイの仕方にすぎなかった。名前を付けるプレイもある。現にポケモンに名前を付けてプレイしている方がいるのだ。

その方によると、ポケモンに名前を付けることで、愛着が湧くという。名付けることは愛着と関係している。中沢新一氏が言うように、名付けることは、自分の人格の一部が移ることである。そしてそれは、ポケモンが個としての人格性を帯びることだ

その点では、ポケモンに名前をつけて愛でる人は、単なる「種」以上に愛おしい存在である「個」としてのポケモンと関わっているということだろう。

これに対して「所詮それはデータ」などと言うことには何の意味もない。大切な人にもらった手紙もただの紙切れではなく、人間の周りにある物は、ただの物質や数字の羅列ではなく、物語的な意味を帯びているからだ。

私たちの周りにあるものは、その心理的、社会的、芸術的な意味や価値を無視して語ることができないものである。紙幣というのもそういうものだ。紙幣はただの紙切れとしてはほとんど価値がないものである。だが、社会的な関係の中で通貨としての役割を帯びている。貨幣は物神(フェティッシュ)であるつまり、人間に作られたものでありながら人間を動かし、人間の働き方や社会制度を形作るものである。貨幣は、交換の手段であるにもかかわらず、価値の源泉であるかのように現れ、人間を支配している。

Photo by Ken Douglas

Photo by Ken Douglas

私たちの生きている具体的な現実の世界は、単なる物質の世界ではない。物質と物語が不可分離的に結びついている世界である。

私たちの周りにあるものは、私たち自身の感じ方や好みを反映していると共に、その物自身の在り方を私たちに伝えてくる。名前を付けたくなるのにも理由があるのだ。その理由は、ポケモンが魅力的な存在であり、またARにおいて一回的に出会われる存在だということだろう。

ポケモンに名前を付けるという時、人間からポケモンへの一方的な関係があるというのではない。それと同時にポケモンが人間に名前を付けるように促している。私が興味を持つことと、物が私に働きかけることは重なっているのだ(現実には、私が物に興味をもつことと、物が私の興味を引くことのどちらかの側面が優位になるが、全く一方通行な関係はない)。

ブブッとバイブレーションが鳴ると、スマホをタッチして、ポケモンを捕まえるように促されてしまうというのも、ポケモンによる働きかけと言うことができる。しかしそこではまだポケモンは単なる獲得の対象だ。自分の所有物であっても、固有名を付けようとは思わない。固有名を付けるということは、単なる獲得の対象と関わるのとは違う関係へと入ることだ。

日本刀に名前がある理由

ポケモンに名前を付ける時、人は、ポケモンとのどんな関係に入っているのだろうか。いろいろな例を出しながら考えてみよう。

まず、食器を愛でるという場合はどうだろう。気に入っている器がある人は少なくないだろう。しかしその器を「ロイヤルコペンハーゲンのカップ」や「藍色の茶碗」のような種類や機能で名指すだけでなく、その器に「シャルロッテ」のような固有名を付けているという人は多くないだろう。

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Photo by Eiti Kimura

それに対して、日本刀には固有名が付いていることが多い。これは刀が武士の誇りであり、命を預ける存在だからだろう。

刀は単なる道具ではない。「刀は武士の魂」とすら言われる。魂は心の中にあるだけでなく、自分が使う道具の中に宿るのだ。しかも刀は単なる自己の一部ではなく、刀自身の存在感を備えるとも考えられる。

例えば、道具を越えた道具として共に働く相手として。あるいは芸術品として。

芸術品は、共に働く相手のように呼びかけられる対象としてではなく、鑑賞の対象として唯一無二の固有性を有するため、固有名を有すると考えられる。

協働の相手であることと、鑑賞の対象であることは区別される。一つのものが協働の相手であると共に鑑賞の対象であることもある。

いずれにせよ、唯一無二の魂を宿す存在として、我々の前に立ち現れる。

同じように魂が宿る時、器も特別なものとなる。戦国武将が愛した茶器には固有名が付けられていた。偉大な茶器は、道具を越えた道具として協働の相手であると共に、鑑賞の対象であったのだろう。

例えば「天下三肩衝」と呼ばれる三つの伝説的な茶器には、それぞれに固有名がある。「初花」に「新田」、そして「楢柴」。

あるいは、別の方向から考えてみよう。子どもは物に自分で名前を付けることが多い。自分で物語を組み上げる力が大人よりも高い子どもは多い。ぬいぐるみは、名前が付けられることによって、子どもの物語の中に組み入れられるのであり、ごっこ遊びの役者や、会話の相手となるのである。

またこのように考えていると、ブランド名というのも、一つの固有名であることに気づかされる。一つのロイヤルコペンハーゲンの器自身には固有名がなくても、ロイヤルコペンハーゲン自身は一つの固有名であり、一つの精神であるとも考えられる。精神といっても、単に創業者の精神といったものではない。その精神は、多数の制作者、多数の広報者、多数の愛好者、多数の傍観者といった、様々な個の相互作用の連関の中で醸成されて行くのだ。この意味での精神は生産様式である。

また人間の作ったものと人間の関係だけでなく、言葉を持たない植物と人間の関係という場面もある。

時折、道端の「雑草」の生命に目を奪われるという体験がある。道端の「雑草」にも、ハルジオン、オランダミミナグサ、ツユクサ、イヌタデなど、様々な名前がある。そして、単に種としての名前があるだけでなく、それぞれの草が個体でもあるのだ。

Photo by candiru

Photo by candiru

これも単なる人間の感傷ではなく、花の生命の発露と、人間の気づきが重なる時に起こることだ。

花の種名は図鑑を引けばわかるが、それぞれの花の固有名はまだ誰も見出していない。

道端の草花の一本一本に名前を与える力は、詩人的な命名能力だろう。それは豊かに新しい形を生み出す想像力のなせるわざであると共に、草花の生命を聴き取る感受性のなせるわざである。

誰しも詩人であることができる。そして詩人となることが求められる局面もある。例えば自分の子どもに名前を付けるときのように。

石巻のポケモンの、アメに替えられない存在感

ポケモンの話に戻ろう。心を動かされたコメントがある。それは、石巻で捕まえたポケモンについてのものだった。

石巻では、ラプラス大量発生イベントが行われていた。

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ポケモンGOには「アメ」というシステムがある。ポケモンを博士に送ると、そのポケモンのアメをもらえる。多くのプレイヤーは、同じ種のポケモンの中で能力値の高い個体を少しだけ残して、同じ種の多数のポケモンをアメに変えて、その少数のポケモンの成長のための養分にすることになる。

筆者は、前々からソシャゲに見られる(モンスター系であれば)「合成」や、(アイドル系であれば)「練習」と呼ばれる機能の倫理性について少し気になっていた。

もちろんそれは、制作側もよくわかっていて、「アメ」にするというのは、あくまで博士に送ることになっている。

筆者の場合も最初は少し心理的な抵抗感を覚えたが、まあそういうものだとすぐに納得していた。

しかしやはりそうではない事例があるようだ。

コメントをくれた方の体験談によると、石巻で捕まえたポケモンを一匹もアメに変えられないという。少なくともアメに変えることは、自分の下からそのポケモンを引き渡すことだ。その方はポケモンを「石巻で取った子たち」と呼んでいる。

石巻という、旅の思い出の地であり、また「震災」という出来事の重みを背負っている地で出会ったポケモンは、特別な存在なのだろう。被災地を思って行われたイベント中で生まれたポケモンは、人々の想いを通して生まれた存在であるとも考えられる。それは代替不可能なもの、つまり、かけがえのない存在となる。そのような物語的・人格的意味を備えた存在を、アメに替えることはできないのだろう。

なお河北新報によると、2016年11月の石巻でのイベントによる宮城県内の経済効果は二十億円に達しており、計十万人が石巻市を訪れたとのことである。

ポケモンと人間の交流は、個人の中での物語であるだけでなく、社会の動きを作る物語でもあるのだ。

愛は、愛し合う二人の「間」にある

これまで「人格的」という語をよく用いてきたが、人格とは何だろうか。

人格というのは、関係的存在だと言われる。

子どもがいる前から、父がいるようにも思われる。しかし父になる前の男の人はいても、父はいない。子どもが生まれるとき、父も生まれるのだ

親子の関係だけの話ではない。

Photo by JOHNNY LAI

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人は他者との交わりの中に入る時、その交わりの中で新たな自分になるのだ。

三木清は、そのことを『人生論ノート』でこんな風に語っている。三木清は、昭和初期に活躍した哲学者だ。

愛は私にあるのでも相手にあるのでもなく、いはばその間にある。間にあるといふのは二人のいづれよりもまたその関係よりも根源的なものであるといふことである。

つまり愛は私を、愛する者というそれまでとは別の在り方へと作り変えるということだ。愛が人の生き方を変えるのである。

フィクション的存在のリアリティ

人間同士の愛の関係と、プレイヤーとポケモンの関係を、単純に同じように語ることはできない。両者を比較すれば、やはり一方向的であるという感は拭えない。それは、ポケモンがプレイヤーを愛するという方向が弱いからである。

しかしポケモンが存在感、ある種の生命をもって現れてくる限りで、そして、私たちがそれに突き動かされる限りで、ポケモンにも一種の人格性が見られるとも考えられる。

人間同士の関係でも、とても人格的な関係もあれば、あまりそうでない関係もある。

最も人格的と言える関係は、何かのためではなく、お互いがお互いをかけがえのない存在として大切に扱うという関係だろう。例えば、「恋」と「愛」は違うといわれる。単なる「恋」はやはり自分の欲求や憧れが中心になっている。それに対して、「愛」の方は相手を本当に思いやるということである。

一方、あまり人格的とは言えない関係もある。

例えば、筆者がコンビニで買い物をする時、店員が誰であるかを気にすることはあまりない。しかしだからといって、その店員を人格だと思っていないわけではない。ただ関わりが薄いということだ。すべての人と同じ密度で関わることはできないし、その必要もない。

人格的交わりには、無数の程度差があり、多様な質がある。0か100かではない。そのように考えるならば、ポケモンにある種の人格性を感じるということを、私たちが人間に人格性を感じるということから、それと無関係なものとして切り離すことはできないということになる。

このようなゲームのキャラクターのリアリティは、デジタルのゲームが現れた時から存在していた。より広く考えれば、映画、小説、漫画、アニメのようなフィクションのキャラクターがもつ存在感、私たちの人生に与える影響力のことを考えてもよい。

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しかし小説やアニメの場合、やはりそのようなキャラクターは誰かが書いたものであるとも考えられる。一方、ポケモンGOの場合、単に書かれたものを我々が受け取る、読み取るだけではない。ある時、ある場所で、新しいポケモンの個体が「誕生」するのである。

その意味でフィクション的存在の、一つの新しいリアリティの形をポケモンは提示しているだろう。

小説、映画、アニメ、漫画などはあくまで過去に作られたものとして、形が定まっている。勿論、単に私たちはそれを受け取るだけではない。人それぞれ、その時々にそれをどう感じるか、どう解釈するかが変わってくる。そこに一人一人の主体性がある。作品は単に作者だけが作るものではなく、作者と読者が共に作るものだ

しかしポケモンGOのようなゲームは、単に作られたものではなく、その都度自らを作り変えていくシステムである。 ポケモンGOは、今ここで新たなポケモンを生成させるのだ。

この要素は、Ingressには見られないポケモンGOの特色でもある。

このような新しい個体の生成は、今後のゲームの一つのスタンダードになるかもしれない。そこで、単なるユーザーによるカスタマイズだけではなく、個体が生まれる時間や場所の偶然性や、個体自身の成長の自発性が大事になるはずだ。

そこでポケモンGOが単なるVRではなく、ARであることが生きてくる。

この偶然性と自発性が、その個体の唯一無二性を形作るコアになるのである。ARは、遠くの山も庭の一部にしてしまう技法である借景のように、この世界そのものをゲームに入れてしまう。

単なるデータよりも、体験の豊かな質と、個の存在の重みに注目が集まりつつある時代の中で、ARは重要な役割を果たすだろう。

15578907_1825324624405210_762492761004726231_nこの前の記事では、あの夏の爆発的ブームを振り返るという意味で「あの熱狂は何だったのか」と、過去形で書いたが、その過去形について、ポケモンGOのファンの方から「過去形(笑)」というツッコミをいただいた。

熱狂は今も続いているのだ。