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ポケモンGOを哲学する。あの熱狂は何だったのか?

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2016年7月22日、日本でのポケモンGOの配信が開始された。2016年12月現在、既に配信開始から四ヶ月以上が経過した。あの異様な盛り上がりはもはや見られないが、今でもポケモンGOは無視できない存在だ。

あの熱狂は何だったのか。そろそろ、ポケモンGOとは何だったのか、そして何でありうるのかを、じっくりと考えてみてもよい頃だろう。

この記事でいう「哲学する」とは、総合的に考えてみるということだ。つまり、データの分析、個人の体験の想起、状況の分析、倫理学的な思考といったそれぞれ異なる領域の話を総合しながら、一つの事象についての理解を深めるということだ。

ポケモンGOの歴史

まずこれまでのポケモンGOの歴史を簡単に押さえておこう。

7月22日の日本での配信開始当時は、どのくらいのブームになっていたのか。配信直後にMMD研究所が発表した「ポケモンGOの利用実態調査」の結果を見てみよう。

この調査は、15歳から69歳の男女1,949人を対象に行われた。

  • ポケモンGOの認知率は9割を超える。
  • ポケモンGOを認知しているスマートフォン利用者(1453人)のポケモンGOのプレイ率は約4割
  • ポケモンGOをプレイしてみた感想としては、 「バッテリーの消耗が激しい」「とても楽しい」が上位。
  • プレイユーザーの34.0%に歩きスマホの経験あり。
  • 年齢別プレイ率では、15-19歳が51.2%、20-29歳が48.0%、30-39歳が37.5%、40-49歳が29.3%、50-59歳が35.6%、60-69歳が15.3%。

注目すべきポイントは、プレイ人口が多いこと、そして、単に若者だけではなく、中高年もプレイしていることだ。

TechCrunchによると、ポケモンGOは、 最初の1週間で史上最多のダウンロード、Google Playでの最速の5000万インストール を達成、さらにゲーム史上最速となるリリース後わずか60日で売上5億ドル達成したという。また、9月8日時点でポケモンGOは5億回ダウンロードされており、ポケモンGOのトレーナーが地球を歩きまわった距離が合計で46億キロになるとのことである。

ポケモンGOの反響を押さえたところで、配信開始以降の主だったアップデートを押さえておこう。

最初の時点では、従来のソーシャルゲームに見られるようなログインボーナスやイベントといった要素は見られなかった。

  •  2016年9月16日に、スマートフォンを見続けなくてもポケモンGOを遊ぶことができるデバイスである「Pokémon GO Plus」が発売。すぐに品薄状態になっている。このデバイスの発売とほぼ同時に、一緒に歩くことでアメをもらうことができるという「相棒ポケモン」機能が実装されている。
    「Pokémon GO Plus」は12月現在でも人気があるようだ。

段階的な新機能の実装やイベントの実施には、一度飽きてしまったユーザーに再び関心を持たせるような工夫や、毎日プレイする習慣を付けさせるための工夫を感じる。

ポケモンGOは現実を「発見」させる

ポケモンGOの最大の特色は、街の中でポケモンを捕まえるという体験ができるということだ。その体験を可能にするのが、AR技術だ。(※AR : Augmented Reality:拡張現実)

夜空にかざすと、見えている星座を確認することができるアプリ「星座表」のように、ARによって肉眼で見えているもの以上のものを見えるようになる。ただスマートフォンに情報が表示されるのとは違って、物理的な地点と情報がリンクしているから、現実の街とスマホ上の街が重なり合って、二重写しになる。霊感のある人には幽霊が見えるように、普通の人には見えないものが見えるようになるのだ。現在はスマホが主流だが、今後は技術革新を経て、スマートグラスが一般的なものになっていくのか。それとも、多くの人は一定以上のハイテクを必要としないのか。

この動画では、現段階でのスマートグラスを見ることができる。

筆者は、ポケモンGOを最初にプレイした時、家の中ではほとんどポケモンが出てこないため、面倒くさいゲームだなと感じた。しかし、いざ家を出てみた時、ちょっとした感動を覚えた。アイテムの補給所である「ポケストップ」のおかげである。

足を踏み入れたことのない近所の公園の銅像や、駅前の店のマスコットキャラクターのところに、「ポケストップ」が設置されていた。ARは、普段見えているものに、ゲーム上での新しい情報を加えるだけのものではない。それと同時に、ARには、普段見えているはずだが無視してしまっているものを「発見」させる機能もあるのだ。

人間は普段、自分の生活に役に立つものだけが目に入るように、視界を狭めている。目に入ってくる多くの情報は無価値なものとして捨てられている。旅行に行ったり、展覧会に行ったりする時に、新しい場所や物に目を奪われるように、ポケモンGOは普段は気にもとめない場所や物の魅力を「発見」させる力を秘めているのだ。

ポケモンGOよりIngressの方が面白い?

ポケモンGOは、AR技術を用いたゲームであるIngressを下敷きにしており、Ingressによって得られた膨大なデータやノウハウを利用している。Ingressが一見すると取っつきにくいがはまると奥が深いタイプのゲームであったのに対し、ポケモンGOはわかりやすく、いろいろな層にアピールする力を持っていた。

Ingressについては「ポケモンGOの兄弟であるイングレスが「大失敗」と言われてしまう理由」が詳しい。この記事にはIngressへの愛を感じる。

ポケモンGOは、Ingressに知名度や売上げの点では勝っていても、ゲーム性という点では必ずしもそうではないという声もある。例えばポケストップの機能についての不満の声がある。

Yugioh.comは、ポケストップの存在意義に疑問を投げかけている。

ポータルはポケストップとほぼイコールですが、「Ingressにおけるポータル」と「ポケモンGoにおけるポケストップ」は存在意義が異なります。個人的には、ポケストップがある理由があまり見いだせません。

Ingressでは、ポータルの密度や緯度・経度が重要な意味をもち、歩き回ることが重要だ。それに対して、ポケモンGOでは、どのポケストップもゲーム上の機能は同じであり、他のポケストップとの関係もほとんどない。極端なことを言えば、複数のポケストップが集中しているエリア(後で触れる「ホープくん」のような所謂「聖地」)にいれば、歩く必要はないことになる。

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またポケモンGOでは、街を歩くということを十分に生かせていないとも言えるだろう。たしかにポケモンGOは、どこかに向かうとか、散歩をするとかいうようなありふれた日常を、一つの冒険、あるいは狩猟の体験に変える。

だが、どこなのかもよくわからない無機質な街のCGや、ポケモンを捕まえる時に出てくる野原のような場所には、自分がいる場所の個性がない。

また、従来のゲームに見られるストーリーもなく、エリアの特色もなく、魅力的な課金要素にも乏しく、単に強いポケモンを集めることに終始しがちであるため、飽きやすいと言われる。ギルド(プレイヤーが結成するコミュニティ)や商業活動のあるネットゲームや、自由な戦略的行動ができたIngressに対して、今一つ発展性を欠いているというような批評もある。

ポケモンGOに飽きる理由については、「ポケモンGO、もう飽きた?人気低迷の理由とは?」が詳しい。もちろん、開始時のスケールのブームが去ったといっても、まだまだ根強い人気がある。

Googleマップ vs ポケモンGO

社会学者の若林幹夫氏(早稲田大学)は「世界とのインターフェイス──グーグルマップの社会学をめぐって」の中で、読み手が物語を作るための素材として地図が機能するという話の中で、「『ポケストップ』が決まっていて、街を歩く行為をその物語のなかのひとつの出来事にしてしまっています。そうした拡張現実の物語に人びとが惹きつけられているのではないでしょうか」という指摘している。
要するに、ポケモンGOは、街を歩くこと自体を非日常的なイベントに変える力がある。それぞれの場所にドラマ性を与える力があるということだろう。

しかし、これに対して対談者である社会学者の松岡慧祐氏(奈良県立大学)は、これまでの地図やGoogle マップによって得られる体験と、ポケモンGOを通して得られる体験の違いを強調している。

「いま・ここ」を拡張するのが拡張現実であり、そこに魅力があるわけですが、そうであるがゆえに、「いま・ここ」を超越するような地図特有の想像力はありません。たしかに、ポケストップを巡ることで立ち現れてくる物語性はあるでしょうが、行ってもいないのにイメージが膨らんでいくという妄想の物語をみずから展開するのは難しい気がします。

地名や施設名、商店名などが事細かに書き込まれた地図(特にGoogle マップ)は、様々な想像力を刺激して、実際にそこに行く場合も、行かない場合も、新しい冒険の機会を与えてくれる。自宅やカフェにいながら、地球の裏側を歩くこともできる。今自分のいる場所を越えて行くことができるのだ

一方、ARでは、今自分のいる場所のことしかわからない。しかも今のポケモンGOの場合、ポケストップやジム以外の場所の名前は表示されないため、地図による物語の素材の提供、あるいは刺激的な情報の供給が起こらない。

松岡氏はポケモンGOが身近な場所を再発見する路上観察学的な感性を育むことになったことを認める。筆者自身、ポケモンGOをしていない時でも、ちょっとした彫刻の存在など、さりげなく面白いものに目を向ける機会が増えた。

しかしその上で松岡氏は、ポケモンGOによって自分の地図が広がったり、地図的な知識が蓄積されていないことを指摘する。それに飽き足らないものを感じる松岡氏は、GoogleマップとポケモンGOと融合させるというアイディアを提示している。ポケモンGOに実用的なナビゲーションシステムとしての機能を与えるというのだ。つまりそれは、ゲームをプレイすることと、地図からさまざまな物語を読み取ることの一体化である。

ゲームと生活は融合する?

今はまだ空想のレベルにとどまるが、スマートグラスのようなウェアラブルデバイスが当たり前のものとなる時、日常の中に娯楽性や冒険性、要するに遊び心を導入することが可能となる。そこでゲーム的なものと実用的なものが一体化するのかもしれない。既にARを使って、ボーカロイドのようなCGのキャラクターを現実世界に出現させることが技術的に可能だ。これからはスマートグラスを通して現れるピカチュウと共に街を歩くことも可能になることだろう。

by David Spinks

Photo by David Spinks

秘書機能をもったAIのSiriは、今はまだあまり実用的とは言えないが、これが進歩すれば、ARで表示されるパートナーとなるかもしれない。今でも既にイヤホンをはめて聴覚を通して自分の世界に入る人たちが少なくない。これからは視覚的にも自分の世界や、自分の物語を街の中に展開できるようになるかもしれない。ゲームと現実が一体化した世界である。

それとも、遊びは遊び、実用は実用ということで、ゲームと生活の融合は一部のマニアだけのものにとどまるのか。かつて邪魔者扱いされて消えていったイルカがいた。Microsoft Officeのソフトのサポート役を行う「カイル」は遊び心の効いた機能だったが、鬱陶しいと感じる人も少なくなく、現在では表示されなくなっている。

お前を消す方法」ではカイル絡みの有名なネタが紹介されている。

とはいえ、現時点でもポケモンGOは、ゲームと日常の境目を曖昧にしていると言える。このゲームは、テレビゲームやネットゲームのように家にいる時にするものではない。また、ソーシャルゲームのように待ち時間での暇つぶしにやるものでもない。このゲームは外出の機会にやるものだからだ。また多くの人が気にしている健康やダイエットと結びついている点も重要だ。「タマゴ」や「相棒機能」は歩くためのモチベーションとしても機能する。すべての活動に娯楽性を与えたいと考えるのも自然なことだろう。

「なかよし公園」での死闘

先ほど「ポケストップ」がこれまで気付いていなかったものを発見させたと言った。ところで、「ジム」も意外なものを「発見」させたのではないか。いや、単に「発見」させただけではなく、「新しい結びつき」を生み出したのではないか。

筆者の体験談になるが、近所に「なかよし公園」という小さな公園がある。ここがジムとなっていた。プレイヤーは三つのチームに分かれて、ジムの取り合いをする。ジムに自分のポケモンを置いておくとボーナスが生じる。この「なかよし公園」のジムは、なかなか盛況だった。

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Photo by mrhayata

サービスが開始された直後から、すぐにポケモンを育成する人たちが現れ、ジムにはそれなりに強いポケモンが並んでいた。閑静な住宅街の夜に、近くに住んでいる人同士が死闘を繰り広げる。もちろん相手がどんな人かはわからない。しかし近いところにいる。

やっとのことでジムから敵チームを追い出して、自分のポケモンを置こうと思ったら、既に別チームに取られてしまったこともあった。午後11時頃、公園のベンチに座りながらスマホをいじる背広の男性を見たこともある。

「なかよし公園」は、ポケモンGOの力によって、子どもも大人も「なかよし」になれる場所に生まれ変わったのかもしれない。

「聖地」に立つと見えてくるもの

この世代を越えて、無関係な人同士が一つのツールで、つながるという感じは、「聖地」に行く時にも感じる。

渋谷の「ホープくん」は、そんな「聖地」の一つだ。

東洋経済ONLINEによれば、この像には、8つのポケストップが密集しており、レアポケモンが高頻度で出現するという。この像の周りには、たくさんの人たちが人々が集まっている。ビックカメラの前にあることもあり、電池が切れたら携帯充電器を購入することもできる。この「聖地」の人気に対して、ホープくんそのものに興味を持つ人はあまりいないはずだから、ホープくんも複雑な感情を抱いているはずだ。

ここに行ってみて驚くことは、年齢層が様々であり、若者、サラリーマン、海外からの旅行者等々様々な人たちがいることだ。彼らの目的は同じではあるが、特に関わり合うことはない。かつてのポケモンのゲームには、他人に自分のポケモンを送る機能があったが、ポケモンGOには、客同士の関係よりも客と運営の関係を重視する今のソーシャルゲームの典型的なビジネスモデルもあって、「ソーシャル」な要素はほとんどない。しかし「聖地」に立ってアプリを開くとき、一種の連帯感のようなものを感じたということも否定できない。一つの流れに自分も含まれているというような感覚だ。

もし誰もポケモンGOに見向きもしていなかったら、このゲームをすることは馬鹿馬鹿しいと感じる可能性もある。いろいろな人がやっているということが、このゲームの価値を高めるとも言えるだろう。実際、単に楽しいからというだけではなく、これからの時代に何が来るかを読むために、プレイした人もいるはずだ。

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通常のソシャゲでは、どんな人がやっているかが可視化されない。しかしこのゲームでは「聖地」のような物理的に同じ場所に立つ時、多様な層がプレイしているということが可視化されるのだ。ポケモンGO以前のソーシャルゲームにも中高年のプレイヤーが存在したが、そのようなプレイヤーが可視化されたとも考えられる。

可視化という点では、大人と子どもの境界の曖昧さがありありと可視化されたように見える。当初、立派な風貌のサラリーマンがこのゲームをやっているのかということに、ちょっとした衝撃を感じた。初期のポケモンをプレイしたのは主に子どもたちだった。それに対して、現在のプレイヤーは、子どもだけではない。むしろ、子供時代にポケモンに触れていた今の二十代や、それよりも上の世代である。

大人と子どもは、一応年齢や仕事という点では区別できる。だが、大人の趣味と子どもの趣味の境界は揺らいでいる。ポケモンGOは、もはや「子ども向け」とか「マニア向け」とか「たかがゲーム」とか言ったような言葉では語れないものになっている。このゲームは、飲食店に人を呼ぶための手段や、大量のビックデータを収集するための手段としても注目されている。このゲームは、ビジネスや政治に大きく関わってくるのだ。

ポケモンGOは、現代人の狩猟本能を刺激する?

チベット密教の修行の経験もあるという異色の人類学者の中沢新一氏(明治大学)はポケモンがアニメになる以前に『ポケットの中の野生』を発表した。その中で氏は、コンピュータを通して作られた仮想の宇宙である「ポケモンの宇宙」を通して、子どもたちの中に「野生の思考」が働き始めるという議論を提示している。

「野生の思考」とは「科学技術とはまるで縁のないような人々が、豊かだった自然を相手にフルに活動させていた人類のもっとも古い哲学的思考の形態」(『ポケットの中の野生』新潮文庫、116頁)のことだという。

ラカン派精神分析の用語を使った中沢氏の分析には賛否両論があるが、ポケモンGOのブームを受けて、この本の新装版が出ている。

『ポケモンGO』から『ポケットの中の野生』再読。モンスターボールで母親から自立できたのだろうか」では、中沢氏の『ポケットの中の野生』の論点をまとめた上で、その中にポケモンGOを考えるヒントが探られている。

ポケモンGOの場合も、その人気の背後にどんな心理や欲求があるのかということが問題になっている。「『ポケモンGO』は狩猟本能を刺激する ?」は、かつての少年たちの虫取りとの親近性や、狩猟本能との関係を指摘している。

From Pokémon Go to Birdwatching: UT Scientist Studies How We Express Our Inner Hunter」も、ポケモンGOと「狩猟本能(hunting instinct)」の関連を指摘している。この記事の中で、心理学者のVladimir Dinets氏(テネシー大学)は、ポケモンの捕獲と、バードウォッチングや野生動物の撮影が、同一の本能に基づくものであるという仮説を提示している。Dinets氏は語る。

Pokémon GOは、リアルな場所でヴァーチャルな動物を狩猟することができるゲームです。このゲームが最近爆発的に流行しているということから、私たちは二つのことを読み取ることができるでしょう。一つは、そのような狩猟の代替物には強い中毒性があるということです。そして、多くの人々が自然環境から完全に隔離されている都市の住人であるのに、狩猟に似た行動を好むということです。

その上でDinets氏は、狩猟本能との付き合い方について示唆を与えている。

この研究から私が伝えたい重要なことは、私たちには捕食性の本能があり、そしてそのことに気付いている必要があることです。ですが、これは、私たちが文字通りの意味で捕食者になる必要があるという意味ではありません。そうではなく、それよりも聡明なやり方でこの本能に従うことができるということなのです。

仮に人々がポケモンGOに興じる一つの要因が「狩猟本能」にあるとすれば、この本能は人間的な仕方で現れていることになる。つまり、ポケモンを捕まえることは、社会的に、あるいは文化的に価値のあるものを集める営みになっていると言えるだろう。例えば、他人と競い合うジムがあることによって強いポケモンの価値が高まり、図鑑があることで未発見のポケモンの価値が高まる。食べるためではなく、価値の所有のためなのだ。

データ以上、ペット未満

捕まえたポケモンには、捕まえた場所と日付が表示される。これによって私たちは生活のどの場面でそのポケモンに出会ったのかを思い起こすためのきっかけを得ることができる。これによってポケモンが土地による刻印を帯びる。その点で、単なるデータである以上の何か、存在感が保証されるような感覚も生じる。何の苦労もなく手に入ったものと、苦労しながら手に入れたものとでは、その物を覆っている物語的な意味が異なっている。データは、単なる記号の羅列に還元される。いくらでも複製可能だ。しかしポケモンは、データ以上の存在であり、一回的な物語性を帯びている

ポケモンは、データ以上の存在ではあるが、ペットやパートナーとまでは言えないだろう。それはポケモンが種族名で表示されていること、つまり、個体というよりも種族として認識されていることにも関係している。

アニメのピカチュウは、コミュニケーションを取りつつ、共に冒険するパートナーとして、物語性と人格性を帯びている。だからそれが種族名で呼ばれているのは、少し考えるとおかしなことだと思えてくる。普通、自分の可愛がっている犬に「犬、お手」とは言わないし、友達に「おはよう、人間」とは言わないからだ。

一方、筆者のカビゴンは、新宿でタマゴから孵化した時には感動を与えた存在ではあるが、所詮単なるカビゴンでしかない。したがって、他のカビゴンとの差異は数字や技の違いでしかない。二人称的に「きみ」として呼びかけることなど考えられない。あくまで単なる三人称的存在(「それ」)である。

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たしかにこのゲームには固有名を付ける機能はある。しかし少なくとも筆者には、固有名を付ける意味が感じられない。それに対して、かつてのポケモンでは、他のプレイヤーにポケモンを送ることができたため、固有名を付ける行為が今よりも重要な意味をもっていたと考えられる。かつて、中沢氏も「交換された『ポケモン』には、それを最初に育てたプレイヤーの人格の一部が付着することになる」(『ポケットの中の野生』、126頁)と論じていた。

名前は、社会関係の中で意味を持ってくる。私たちは犬や猫のペットと非言語的コミュニケーションを行うのに対して、ポケモンとはコミュニケーションを取らない。単なる人間の制作物と人格をもった存在の境目を考える上で、一番の基準となるものは、コミュニケーションの可能性だろう。もし仮にAIが人格をもつ瞬間が訪れるとすれば、それはおそらくAIに語りかけることが当たり前のことだと感じられる時なのだ。

ポケモンGOの場合では、通常の場合ポケモンに語りかけることはないから、人間同士の社会的関係の中で、ポケモンの固有名が意味を持ってくる。そういう意味では、SNSなどでこのゲームのスクリーンショットを挙げる際に、面白おかしい固有名をポケモンに付ける人たちがいるのも頷けることだ。人が見るから名前を付ける意味が出てくるのだ。

ポケモンGOは、今年流行した「シン・ゴジラ」や「君の名は。」と同様に、リアルでの、またSNS上でのコミュニケーションをする上での話題やキーアイテムとして機能していた。ポケモンGOは、特にポケモンの画像と一緒に、自分の行った場所のことも紹介できるという点でSNSとの親和性が高かった。

技術が生き方を変える?

ポケモンGOは、従来の多くのゲームと違って現実の世界を舞台とするため、様々な危惧や批判を集めてきた。宗教界でも、宗教施設内でポケモンを捕まえることを禁止するかどうかの決断が行われた。netgeekは、伊勢神宮の広報課が「森の中にいるポケモンは捕まえずにできればそっとしておいてあげてほしい」という気の利いたコメントを出したことが、話題になったという出来事を紹介している。

宗教学者らが、東京で「ポケモンGOについての世界宗教者会議」を開催したというニュースもあった。

宗教施設でポケモンを捕まえることを許容するかということは宗教界に固有の問題だが、最も広く共有されている問題は「歩きスマホ」の問題だ。このゲームには、交通安全上、問題のある行為を誘発しやすくする性質があることは否定し難い。そこでは、使用者の倫理と共に、設計者や運営者の倫理が問われている。

原著が2011年に出版された技術哲学の書である『技術の道徳化』の中で、哲学者のPeter-Paul Verbeek氏(トウェンテ大学)は、技術と倫理の関係を問題としている。人間は自らが用いる技術によって影響を受けており、技術なしに人間は行為できない。Verbeek氏は、そのような現実に焦点を当てた倫理のアプローチを提案している。

Verbeek氏は、「技術とは人間の条件の一つである。あらゆる意味で、我々は技術とともに生きていくことを学ばなければならないのである」(同書、265頁)と考える。Verbeek氏は、技術と共に生きていくための方法として「技術文明における生の技芸」を提示する

技術文明における生の技芸というのは、技術の影響に制限をかけることではなく、責任ある技術設計や技術使用のかたちを築くことによって、我々自身の媒介された主体性を形成していくための技法のことである(同書、267頁)。

これは技術に全面的な信頼を置く急進的な態度でもなく、技術によって人間が変化することから人間を守ろうとする保守的な態度でもない、二つの極端な立場の間に見出された「適切な中道」であるとされる(同書、269頁)。

ラプラス大量発生イベントでのナイアンティックの決断

Verbeek氏の立場に同意するかはともかく、氏の問題提起は、ポケモンGOの倫理性を考える上でも、これから現れる技術(例えばスマートグラスやVRの問題)を考える上で重要だろう。技術が人間の生き方を変えるのであり、生活スタイル、物の考え方のすべてが技術の影響を受ける。それと共に人間は技術の奴隷ではなく、技術を設計し、運用していく存在である。さて、ポケモンGOの場合では、具体的にどうしていけばいいのだろうか。

一つの重要な事例として思い当たるのは、ポケモンGO運営のナイアンティックが11月22日朝に発生した地震を受けて、東北地方沿岸で実施していたラプラス大発生イベントの終了をしたという出来事だ。

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Engadgetは、この出来事の背景を「ナイアンティックはポケモンGO以前から運営中のゲーム Ingress でも東北と縁が深く、今回のラプラス祭りも無償の復興支援策の一貫でした」と説明している。

ナイアンティックの東北への関わり方も重要だ。だが、もっと注目に値するのは、このイベントを停止させた時の手際の良さだ。

ねとらぼが「ラプラスはゲーム中では非常に貴重なポケモンで、そのままイベントを続行していれば、津波の危険がある沿岸部にユーザーが集まってしまった可能性も」と報じているように、人命が危険に晒されかねない状況になっていた。

そのとき、ナイアンティックは、「地震発生からわずか28分」でラプラスの発生停止の決断を行っている。もたもたせずに、人々の行動にゲームが及ぼす影響を予測して動いているのだ。

このような状況把握力と決断力は、技術と人間が付き合っていく上での一つのモデルケースを示していると言える。技術倫理の問題は、ある技術がいいか悪いかを話し合うだけでは不十分だ。

それだけでなく、その設計の際の配慮、また運用の際のノウハウの問題として具体的に検討される必要があるのだ。

技術との付き合い方に唯一の正解はない

歩きスマホの問題に戻ろう。現時点でこの問題を完全に解決することは難しい。しかし、歩行中に下を向いてしまって前が見えなくなるという問題は、スマートグラスが日常的なものになると解決されるかもしれない。スマートグラスは、前を見ながら、ARを楽しむことができるからだ。だが、その時にはまた別の問題が出てくるはずだ。

技術と付き合っていく上での一つの道は、このようにできる限り人間の健全な社会を作るのに役立つように技術を改善していくという道だ。しかしそれだけではなく、どの技術を使うか、自分なりに取捨選択するという道もある。

例えば、今スマホを使わないでガラケーを使い続けている人たちもいる。携帯を持っていない人もいる。以前、携帯を使わない哲学科の教授と携帯について話したことがある。その教授は、「待ち合わせを楽しみたい」と語っていた。テクノロジーで生活すべてをコントロールしようとするのではなく、偶然性が入る余地や想像ができる余地を残しておく。時には、どうしたんだろうと思いながら、待ちぼうけをする。そんな「ゆとり」を大切にしているということらしい。「待ちぼうけ」をしている時にしか感じられない気持ちや、その時にしか見えない風景もあるのだろう。

そういう生き方もある。ひたすら便利さを求めるとゆとりがなくなって、いつも忙しいということにもなりかねない。

かといって、いつでも技術が未知のものとの出会いを失わせるとか、技術に頼っていると人間味が失われるとかいうわけでもない。ポケモンGOが普段気付いていなかった街の魅力が発見させたように、技術には人生を楽しくさせる力もあるからだ。

技術との付き合い方に唯一の正解はない。一人一人が、自分に合った技術との付き合い方を考えていく必要があるのだ。

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ポケモンGOは、これまで見てきたように、さまざまな「新しいつながり」を生み出した。例えば人と物の間に、人と人の間に、人と場所の間に。あるいは、ゲームと日常生活の間に、大人と子どもの間に、技術と倫理の間に。

ポケモンGOは、社会に大きなインパクトを与えた。その意味で新しさがあった。しかし新しいものというのは、これまでのものと無関係に突然出てくるわけではない。大きな変化は、これまでの積み重ねがなければ起こらない。その意味では、植物の種が発芽して、成長して、やっとのことで花を咲かせるようなものだ。IngressなくしてポケモンGOはない。Ingressの中でポケモンGOは準備されていた(勿論、Ingressは単なる準備段階ではなく、それ自身の個性的な魅力を備えている)。

ポケモンGOの流行は、全く新しいものではなく、スマホの普及、AR技術の進歩、価値観の多様化等々、今の日本や世界を動かす大きな流れを象徴する一つの事件である。「象徴」というのは、一つのものが他のたくさんのものを自らの中に表現しているということだ。ポケモンGOには、今の日本や世界の姿、あるいは、今の私自身、今のあなた自身の姿が映り込んでいるのだ。

2016年夏の「ポケモンGO」のブームは、私たちの生き方にとって重要な問題提起を含んでいる。この記事で提示した切り口の他にも、面白い切り口が存在しているはずだ。

※追記

この記事への反響を手がかりに、よりディープなポケモンGOの世界を扱った続編を書きました。