Essay

【エッセイ】結婚前前前夜。運命なんて、あるのだろうか?

自由な恋愛ができるこの世の中で、わたしはいったいどうやって最高の「その人」を見つけられるのだろう。最近お酒の席で人と話したことを元に「運命はあるのだろうか?」ということについて考えてみました。

もうすぐ結婚する。
ということでこの前久しぶりに「のび太の結婚前夜」を見た。同じ境遇にあり、かつまた奇しくも自分と同じ名前のしずかちゃんにここぞとばかりに感情移入してしまう。
結婚前夜、不安に駆られて結婚をやめると言ってパパに泣きつくしずかちゃん。彼女を諭すパパの言葉には、以前同じシーンを観たときよりいっそう胸を熱くしたのだが、

「のび太君を選んだ君の判断は正しかったと思うよ。あの青年は人の幸せを願い、不幸を悲しむことができる人だーー」

熱い胸のうちでふと思う。そう、「選択」なのだ。しずかちゃんはのび太を「選択」した。しずかちゃんはこれまでハタと思わなかったのだろうか、この人よりももっといい人がいるんじゃないか?と。そもそもなぜ出来杉君でなくのび太なんだったっけ、無反省に過ぎないか同じ名をもつ同士よーーー

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自由な恋愛ができるこの現代の世の中で、たくさんの人との出会いのなかからわたしに合うステキな人を探す。運よくあちらも好意を寄せてくれてお付き合いをして、でもずっとはうまくいかなくて、ケンカをしたり距離を置いたりあれこれして結局ダメになるーーうまくいく時はまだよくて、振られたり嫌われたりそもそも相手が自分に無関心だったりすることがほとんどで、恋愛においては自尊心がめちゃめちゃになるような思いばかりしてきた傷だらけのローラ状態である。
そんな出会いと別れを繰り返して繰り返して繰り返して最高の、わたしの運命の人はいったいどこにいるのだろう。永遠とも思える果てしない時間のなかで、ぐるぐると同じところを回り続ける衛星はいつ、その軌道を離れてあらたな銀河へと飛び出すのだろう。

そしてそもそも、この世のなかに「運命」なんて、あるのだろうか?
この問いについて、ちょっと考えてみたい。

先日こんな一連のツイートをしたら、妥協して自分を選んだのか、と恋人に怒られた。でも君だってわたしを、同じように相対的に「選択」したんじゃないのか。

わたしだってほんとうは、2016年の某大ヒット映画のように隕石が落ちてきてもびくともしない堅固な「運命」で君と結ばれたかった。前前前世からわたしを探し続けたその結果、絶対的君!に絶対的わたし!として選ばれたかった。いや隕石なんて落ちてこなくてもいい、現現現世の今ここで、顔がタイプだとか、むしろそんなことでなくとも爪がキレイだとか声が変で逆にグッとくるとか猿腕だとか分からないけれど、どんな不純な動機でもいいからまっすぐ君に選ばれて頷く、その恋に「運命」を感じたかった。

だって浴びるようにこれまで読んできたどの少女漫画でもヒロインは、絶対的君に選ばれてきたじゃないか。そんな風に選ばれてわたしも愛を知るのだろうと思い込んで育ってしまった。そしてこのように、受け身で恋愛をスタートしたい、選ばれたいと思う女性はわたしだけじゃあない、のではないだろうか。

受け身で恋愛をしたいと考えている女性は多い。彼女たちは、自分から積極的にどんどん攻めていくのではなくて、その逆に、受け身の立場に立ちながら、好みの男に誘われ、口説かれ、求められて、恋愛の幸せをつかみたいと思っているのである。〔…〕受け身の恋愛とは、自分が女性として欲望され、必要とされていることを実感しながら、恋愛の気持ちを盛り上げていくことである。

ー 森岡正博『草食系男子の恋愛学』

もちろんこれに対しては反発も多々あるだろう。しかしわたしは、女子の間で繰り広げられる恋バナの多くが「ともあれわたしは男に選ばれてきました自慢」であることを経験上知っている。そしてそのように、男性に眼差され欲望され選ばれないことは、すなわち自分の価値の、大変な低さのあらわれであると否応なしに自覚させられてきたのである。わたしにとってこの森岡氏の言説は大いに頷けるものであると同時に、欲望されないという事実は自分の承認欲求を醜く飼い太らせることとなったのだ。その結果、今でも恋人がいながら、夜な夜な飲み屋で男性にナンパされることで安価な承認欲求を充たすというどうしようもなくみっともないことを繰り返し続けている。

無論、今現在結婚を誓っている恋人との始まりもわたしの望むような、あらたな星の誕生のごとき運命と呼べるものでなかった。でもそれでも、しかし、わたしは君と一緒になると決めたのだ。運命なんかじゃないのになんで、わたしはこの人と結婚するのだろう。

そしてそのことを考えるときにかつて高校生だった頃、数学のシゲル先生が言っていたことを強く思い出すのだ。おそらく先生が虚数iの説明をしていた時だったと思う。虚数についてはちんぷんかんぷんだったのでその一切は忘却の彼方なのだけれどとにかく、授業はiを愛にかけた雑談、というか恋愛話になった。

その時点ですでに自分が選ばれないことに慣れてしまって未来に半ば失望していたわたしは、先生の雑談を遮って手を挙げ、どうやったら恋人ができるのか、と聞いてみた。今思えば授業中にそんなこと聞くなんて恥もへったくれもない。もはやヤケクソなわたしである。

「今は見つからなくてもいつか必ず、あなたのことが誰よりも一番だと思う人がちゃんと現れる。みんな一人一人に、あなたのことが素敵に見える魔法がかかっているんですよ」

なんかもっといい言葉だった気がするけれどだいたいこんな感じだった。シゲル先生はこんなことを言っていた。わたしは半ば反抗的に、しかしどこかでその言葉を信じたくて神妙な顔で先生のきちんと結ばれたネクタイを眺めていた。でも今でも覚えてるってことはきっとずっと、その言葉を信じていたってことだ。

このシゲル先生の言葉が、どう「運命」と繋がるのかと言えば難しいのだけれどわたしは、そのときシゲル先生がほんとうに伝えたかったことはきっと、見つけられるよりも早く、あなたが「その人」を見つけなさいということだったんじゃないか、と思うのだ。なぜ今になってそう思うのかって、そうじゃなければわたしはわたしをいつまで経ってもちゃんと認められないから、なのかもしれない。そんなの都合のよい言い訳に過ぎないと言われればそれまでなのだけれど。

しかしおそらく、一方的に欲望されて選ばれたって、それだけじゃあどうにもならない。迷いと逡巡の、めまぐるしい星の明滅のなかでわたしはあなたを選ぶのだ。そしてそれを、わたしの「運命」と呼ぶことは果たして間違いなのだろうか。
そうだ「運命」なんて、はじめから誰かが用意してくれるものなんかじゃない。その恋の、はじまりが受け身であっても受け身でなくとも大切なのは、それを「運命」だと決めるのはほかならぬ誰でもない、わたしなのだと言うことなのだ。

隕石のひとつやふたつ、自分で落として運命の恋にすればいい。自分でその人を見つけることは、それくらいパワーが要ることだ。相対的だっていい、わたしがその人を好きでその人もわたしを好きで一緒になることを決めたのだ。今愛している、ことをこれからも愛し続ける確信として決断する、だから今どんなステキにワンダフルな人がバラの花束100万本とともに他の誰でもない、わたしのもとへ駆けてきても、わたしは頷かない。

「運命なんてあるのだろうか?」この問いに対して今、わたしはこう答えよう。

運命なんておそらくどこにもなくて、そうして同時にどこにでもあるものなのだ、と。

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まどろみの中、同士であるしずかちゃんが岸の向こうで手を振って微笑んでいる。そして何かこちらに向かって叫んでいる。

「お前が運命だと思い込むその人がサイコーの運命の人だぜ」

と、わたしにはそう聞こえた。しずかちゃん、熱くなると結構ワイルドな口調になるんだね。
わたしはあいまいに頷いて、そうして舟に乗る準備をする。

 


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