Essay

【エッセイ】結婚前前前後。結婚するって、どういうことだろう?

以前「運命なんて、あるのだろうか?」というエッセイを書いてから4ヶ月が過ぎた。その後3月に入籍し、現在結婚4ヶ月目である。これは、客観的に見れば、というかまあ事実まさしく「新婚」そのものであり、そのいわゆる新婚生活のただなかをわたしは夫と歩んでいる。

画像出典:plaza.rakuten.co.jp

新婚生活、と口にするときわたしたちは、こう、なんとも甘美なあれこれ、を否応なく想像する。めくるめくスイートアンドハニーな、つまりは蜜月の日々…。

‪だがしかし、結婚は生活だ。生ゴミは臭いし、ちょっと怠けて掃除機をかけないでおくと床に散らばる髪の毛の量にアッと驚く。髪の毛、洗面台やお風呂にすぐに詰まってそのたびにため息をつかずにおれない。星野源も大ヒット恋ダンスを踊りながら「意味なんかないさ暮らしがあるだけ〜」と歌っているけれど、実家暮らし二十七年を経てはじめて気づく、暮らすってこういうことなのだナ、というまさにそういう感じ。‬

‪一日を切り取ってみれば前日の疲れを引きずって朝ごはんもままならないままなんとか2人分のお弁当を詰め込んで家を出てそれぞれの職場へ。帰りに駅前のスーパーで買い物をして、たくさん買い込んでふさがった両手を力なくぶら下げ帰路につく。だらだらと夕飯を作っているうちに夫が帰ってきて、今日の出来事なんかをぽつぽつ話しながら夕飯。一緒に後片付けをしたらテレビを見たり、仕事を持ち帰った夫にスライムのようにへばりついてあからさまに嫌がられたり、あとはもう、お風呂に入って就寝。一日が、そして一週間がそのようにして目の前を通り過ぎてゆく。‬

‪とにかくまあご覧のとおり実情、蜜月的要素が入る隙間なんてほとんどないんである。‬

‪そんなようなザ生活、な日々ではあるのだけれど、ありがたいことに結婚してからいろんな人にお祝いのお言葉をかけていただく。‬

とりわけ、教員をしていることもあって廊下ですれ違う生徒からセンセー結婚したのーまじーえーおめでとーと言われることが多い。そのたびにうん、とかまあ、とかありがとーとか適当に返しているのだけれどなかには切実な表情で、「結婚したらほんとに幸せになれるの?」なんて聞いてくる生徒もいる。そのときは内心「ぐぬぬ…」となりつつ、「したってしなくたって幸せにはなれるよきっと。でもわたしは幸せだよ」と、そんな風に答えた。‬

‪しかし。授業を終えた足で廊下を歩きながらハタと思う。結婚ってなんなのだろう。かっこつけてあんな偉そうなことを言っておきながら、わたし実はよくわかっていないんじゃない。だって今してんの生活だけだし。スイートアンドハニーじゃないし。戸棚から納戸から洗濯機の蓋から、開ける扉すべて開けっ放しの夫を毎日叱るだけの小言女だし。はたして結婚ってホントによいものなのだろうか。結婚って、なんなのだろうか。これはちょっと、立ち止まって考えてみるべきことなのではないだろうか…。‬

‪前回の記事では「運命なんて、あるのだろうか?」という問いにわたしはこう、答えた。‬「運命なんて、おそらくどこにもなくて、そうして同時にどこにでもあるものなのだ」と。それはもう言ってしまえば、誰だって、自分にとっての運命の人になり得るということなのかもしれない。‬運命なんてその実、壮大な思い込みに過ぎないのだ。

‪私は昔、結婚というのは、自分にぴったりの、世界で唯一の人を探し出してするものだと思っていた。しかし、今はそう思わない。たまたま側にいる人を、自分がどこまで愛せるかだ。夫が世界一自分に合う人かどうかなんてどうでもいい。ただ、側にいてくれる人を愛し抜きたいだけだ。

ー山崎ナオコーラ『かわいい夫』

「どんな人がタイプか」という話題はこれまで色んな場面でたびたび聞いたり聞かれたりしてきたが、わたし自身もそのたびに、ワニ顔の人がいいーとか答えてきた。けれどたとえばワニ顔かつ高身長、しかも缶びんのゴミ箱に紙くずをこともなげにねじこむようなことのない、まあつまりはモラルがありかつまた機知にも富んだうんたらかんたら…など相手に求めるわたしにとっての好ましさ、というのは挙げようとすればきりがない。けれどそのそれぞれはひとつひとつの具体であること。つまりは継ぎはぎの、わたしの好ましさの総体としての人間などはどこにもいないんである。

まだ出会わないその人をパッチワークのように縫い合わせて仕立て上げ、あるいは自分が勝手に作った鋳型に合うような人を探すのは、きっと、なんだか違う。

本当は、その人!がいる。という、ただそれだけなのではないか。わたしの目の前に、その人!が立っている。その人!はわたしの方を向いていて、その人!の目にはわたしが映っている。そしてわたしの目にもその人!が映っている。そのようにしてわたしたちは、ひとりの人と、向き合ってゆくのではないのだろうか。

‪また、内田樹はこんなことも言っている。


‪『そのよくわからない人』がいつも自分のかたわらにいて、いっしょにご飯を食べたり、しゃべったり、遊んだりして、支えが欲しいときには抱きしめてくれる。そのことの方がずっと感動的じゃないですか。

ー内田樹『困難な結婚』

‪夫といえど、言ってしまえば他人である。家族である、ということ以前になんというか、「他者」であることを日々実感せずにはおれない。テーブルを挟んだ対岸に座るその人に、言葉はどうしようも遠く、ああこりゃ全然届かない、と感じることがある。きつく抱きしめあってもどうにも埋めることのできない隙間があることに、何度でも絶望する。しかしその隙間をどうにか埋めようとしたってそれはどだい、無理な話である。やっぱり人はどうしようもなく、ただただ独りなんじゃあないか。でも同時に独りだから、も、絶対的に孤独だからこそわたしたちは誰かをつねに求めているんじゃあないか。分かり合えないと嘆きを向けるその人もまた、絶対的孤独ないっこの存在なのだ。‬

‪そんなことを、まだ結婚して4ヶ月の人間がエラソーに考えてみるのだけれど実のところ、まだまだ分からないことだらけだ。とにもかくにも、移ろいゆく日々、わたしたちのあれこれ、ひとつひとつをすくいあげて近くから、遠くから眺めたり触ったりすることの、それを日々是好日と呼ぶのかなんなのか、ただただ変化する毎日のわたしたちにわたしたち自身が愛想をつかさず付き合ってゆくのである。‬

本音を言うと結婚するまでわたしは、生まれてから丸々27年と少し、日数にして一万日を過ごした(!)家族とぱったり離れてしまうことをとても不安に感じていて、夜中とかにはやっぱり夫の目を忍んで泣いてしまうかなあと思っていたのだけれど、二人でいればそれはそれでめまぐるしく、家族を思って枕を濡らすなんて暇はなかった。‬

けれど実家に帰ると、出迎えてくれた父に「おかえり」ではなく「いらっしゃい」と言われたり、冷蔵庫にはいつも飲んでいた発泡酒(◯麦)ではなくビール(愛してやまないスーパー◯ライ)がちゃんと冷やしてあったり、帰り際にたくさんのお土産を持たされたり、出不精な妹が駅まで見送ってくれたりして、それでもう、どうしようもなく帰りの電車でわたしは人目をはばからずにぼろぼろと泣いてしまうのだ。

‪けれどわたしは、この人とずっと生きてゆくことを決めたのだ。このわたしの目に映る、絶対的他者!とともに歩いてゆくことを。‬

‪ー現場からは、以上です。‬