Dialog

なぜ侍の標本を作るのか。現代美術家・野口哲哉の自然観に迫る

鎧兜をモチーフとした斬新な作品を数多く発表し、近年脚光を浴びている現代美術家の野口哲哉氏。今回nebulaは野口氏に単独インタビューを行った。

前編では、野口哲哉氏の制作の根本姿勢であるリアリズムに迫った。野口氏は独特のリアリズムを通して現実にアプローチしている。野口氏は現実について語る際、しばしば「自然」という言葉を用いる。一見すると鎧兜と自然はさほど関わりがないようにも思われる。それでは、野口氏が考えている「自然」とはどのようなものだろうか。

All photos by Gallery Gyokuei

奇妙に見える現象にも合理的な理由がある

──先生は、ヘッドホンをした侍や空を飛ぶ侍といった「マッシュアップ」の手法による作品を数多く作られています。こうした制作のきっかけは何でしょうか。

それは、現代の僕たちから見ると信じられないようなものを鎧とマッシュアップさせている当時の文化背景ですかね。例えば、兜の上に哺乳類や鳥類の造形物が乗っかっているとか。西洋の騎士の場合もそうですが、何でこんなものが鎧と合体したんだろう、なんでこんな派手な色になったんだろう、という好奇心です。

──史実として既に存在しているのですね。

Talking Head 2010年

そういう当時も行われていたマッシュアップの合理的な理由が知りたかったんですね。そう思っても、「侍の感覚は我々と違うから」とか「何故ならば熱い武士の心が…」 という精神論的な解釈ばかりでどうしても納得がいなかない。もっと冷えたものというか、論理的なことを(当時の人々は)やっていて、それがかえって奇怪に見えてしまうということがあるんじゃないかと。 鎧兜のデザインは、やっぱり紛れもなく現実が作ったデザインなんですね。侍が単純にアドレナリンに任せてやったデザインではなく、ある種の秩序や法則が弾き出したデザインに見えるんです。暴走族のヤンチャな車と、モーター・スポーツとして結果を追求したF1のデザインがまったく質が異なるのと同じです。自己顕示の為のデコラティブと、機能性の追求としての形態変化は別物ですからね。
その、ある種の秩序の中にあり得ないものを組み込んだとしたら、何か冷徹なものが弾き出されるはずだという思いで作品を作っています。

──なるほど。その秩序、つまり世の中のシステムのようなものを把握すれば、その変数Xの部分に別のものを入れても何らかの結果が出てくるわけですね。

ミノムシに毛糸を与えると、毛糸のミノを作るんですが、同じようなものですね。

現実を知るためのユーモア

──マッシュアップを上手く行うための秘訣はありますか。

やっぱり、勉強と訓練でしょうか。それともっと大切なのは真面目に楽しむことです。
でも、楽しむと言ってもコレが難しい。よく「自分にとって楽しいことをやりなさい」というのがあるんですけど、 じゃあだらだらとマンガを読んだりゲームをするといいじゃない、になるんですが、それは「楽しい事」ではなく、「ラクな事」だったりするんですね。
本当に楽しい事は消費するだけでは満たされない。ある種の努力とか、時には苦痛を伴うこともあると思いますし、それでも立ち向かえるのが楽しい事だと思うんです。はしゃがずに、冷徹に楽しむって、何だかパラドクスですけどね(笑)

──先生は、『インスタント・アーマー』という作品のキャプションで「小人が武装を試みると、きっと身の回りに落ちている空き缶や鉄くずを利用するはず」と書かれています。
「小人が武装を試みると」という条件の部分では遊び心が効いていますが、そこから冷徹な仕方で帰結を出すわけですね。つまり最初の条件設定には遊び心があるけれども、その展開は論理的な感じがします。

インスタント・アーマー 2007年

ええ。そのバランスが大事だと思います。そういう意味でユーモアというのは、とても大事だと思うんですが、「現実そのもの」に対するリスペクトがあってこそ有益だと思います。

時空を越えるコミュニケーション

──先生の作品を見ていると、生身の侍に出会っているような印象を覚えます。『ポジティブ・コンタクト』という展覧会もありましたね。こちらからの眼差しに対して、向こうからの応答があるというような感じがします。ここでは、「コミュニケーション」という言葉がキーワードになると思います。過去の侍と今の私たちが、時代を越えて対話するというようなイメージをお持ちでしょうか。

はい。あるように思えます。この「コミュニケーション」という意味では、こちらのイメージを相手に押し付けるのではなく、相手を知りたいと願う事です。400年前の侍にコンタクトするっていうのは、現代の外国人にコンタクトするのに似ている気がします。

──なるほど。時間的に離れたものも、空間的に離れたものも、同じようなものとして現れるということですね。

ほとんど同じだと思います。重複になっちゃいますが、「自分と違う法律の下で生きている同じ人間」という意味では、戦国武将もドイツ人も、アフリカ人も僕にとっては同じですね。 まあ戦国時代は突出して法律が厳しいとは思いますけど。

ポジティブ・コンタクト 2011年

──両方とも、向こうと接触するための然るべき工夫や努力が必要となるわけですね。

ええ。個体差はあっても、皆同じ人間なので。例えば「敬虔なキリスト教徒」とか、「王族の末裔」って、聞くだけで不要な先入観が入って、要らぬ気遣いが生じたりしてしまう気がします。もちろん「戦国のサムライ」もそうですね。
その気遣いの産物というか、浅草の土産物屋で売っているフジヤマゲイシャのTシャツも、どこにも存在してない日本だったりするわけじゃないですか。でも、日本人が勝手に気を使って日本文化のアイコンを「幕の内弁当」みたいに詰め込んでいる。
「デスいず・ジャパにーず!」って日本人の方から頑張って海外に喧伝してしまう。でもそこはある種の脱力というか、リラックスが必要じゃないかなと。この図柄って、本当にお洒落と感じるのかな…?というちょっとした疑問ですね 。

──過剰演出しなくても面白いということですね。

その通りですね。不要な気遣いが、かえって溝を作ってしまう事だってあり得ます。
「あなたはきっとこういうキャラだからこういう物が好きでしょう!」「え!?ああ、ありがとうございます… (内心はそうでもないんだけどな…)」みたいな(笑)

自然体であること

──画家・藤田嗣治のスタイル、東洋人らしくおかっぱにして猫をたくさん飼い、美女をはべらせるという姿は、パリで自分を売っていくためのセルフプロデュースだったと本人が話していたことが頭に浮かびました。

わかる気もしますね。遠い異国で活動するにあたって、もしかすると藤田氏の中に気負いのような物があったんじゃないでしょうか。
でもホントはもっと自然体で良かったのかもしれません。フジタ氏の『小さな職業人』シリーズといって、自宅のトイレに飾りたい、ということで作った作品が一番ステキですもんね。作品のフリをしていない。心のどこかでこれだけ豪華なものをやったら喜ぶだろうという作品より、みすぼらしくても、自分が好きだから描いた、藝術かどうかは考えないことって大事ですよね。良くも悪くも藤田さんって、外向きの自分と本当の自分の使い分けみたいなものがあるのかもしれないですね。

藤田嗣治 『小さな職業人』より「炭屋」 1960年

──世の中では外向きの姿がメインになりやすいので、もしナチュラルで等身大の自分を示すことが普通になっていったとしたら、文化はかなり変わるでしょうね。

本当にそうですね。恰好を付けずに自然体になると、本音が言いやすくなりますね。
コミュニケーションはずっと楽になるんじゃないかと思います。
僕が侍や甲冑を制作する時も、もちろん安易に貶めたり、笑いものにはしたりしたくないけど、威嚇的な自己陶酔の道具にもしたくない、自然体の姿が一番美しいと信じています。
リラックスした侍に違和感を持たれる事もあるかもしれませんが、人間はリラックスしたほうが多くの物が見える気がします。

人間も自然法則に従う

──よく過去の文化をモチーフに扱っていらっしゃいますが、「歴史」そのものについてはどのようにお考えですか。歴史には、過去の出来事に関する記録と、過去から現在へ続く時間の流れ、という二つの意味合いがあると思いますが。

歴史に関しては、いろんな解釈があっていいとは思います。
個人的には地政学が占める部分がかなり大きいと思います。どの民族がどの土地に住んでいて、そこの気候風土はどうで…といったことですね。土地の位置関係や海流が大きく変わっていない以上、人や文化の移動は歴史的に見て同じような事が繰り返されていると見ていい気がします。

──新たなものが現れるというよりも、繰り返される面に注目されているのですね。その意味で歴史も自然に近い、人間も生物に近いと。そのことを踏まえた上で、人間と生物の関係についてもう少しお聞かせください。人間は生物であるとともに、単なる生物ではないという側面があると思いますが。

僕は人間大好きです(笑)。でも、僕は人間至上主義というか、「人間だけが突出して進化した特別な物」という考えには賛同できないです。他の生物とあんまり変わらないと思うんです。だからといってくだらないという訳ではなく、生き物というのはあまねくみんな尊いと思うんですが。
国際宇宙センターから見た街の映像ってありますよね、暗闇の地球に街明りがビッシリ広がっていて。きれいなんですけど、いいのか悪いのか僕にはあれが「カビ」と似たものに見えちゃうんです。パンの上に生えたカビがだんだんと縄張りを広げてゆく。人からすると迷惑ですが(笑)カビからすると生きるのに必死です。人間も生きる本能に従って集団となり、その中のシステムで(都市が)広がっていくんです。一点からだんだん広がっていって。そういう意味では、人間もその法則に則って生きているだけなんですよ。それを「高度な洗練」よりも、「原始の尊さ」と形容する方が自分にはしっくりきます。

Insectman –Golden armour and “Warabi” sashimiono 2012年/Insectman –“KAGA” armour and “FAN” sashimiono 2012年/Insectman –Black armour and “TENTSUKI” sashimiono 2012年

同じようにヤドカリなんかは、環境に合わせるために、自分が生まれ持ったものではないもの を、貝殻を借りる。その名の通り宿を借りるからヤドカリというんですが、環境に適応するために生まれ持った身体とは違う姿になる生き物って割といるんです。おそらく鎧兜も同じよう なもので、条件さえ整えば、人間はいつでもヤドカリになるんだろうなと思っています。今はその条件が変わってしまったので鎧を着ないんですが、条件が変わったら(現代の)人間が鎧を着ちゃうこともあるんだろうなと思っていますね。

──例えばパワードスーツを着る時代が来るかもしれませんね。

そうですよね。パワードスーツは近いかもしれませんね。軍事と介護、両面が現実的だと言われていますが、軍隊はともかく、介護士の若者やご婦人がスーツを着て老人を軽々と持ち上げる姿は 本来イメージされていた兵器としての姿とはずいぶん違ったイメージですね。

──先生の作品の中にも、パワードスーツを鎧とマッシュアップした作品がありましたね。

そうです。いつの時代でも人間って生き物の範囲から逸脱出来ないですし、環境に合わせて住む場所や、姿を変えていきます。そもそも一部では、進化って下等なものが高等なものへと上り詰めていく事だと解釈されるんですが、進化って環境に合わせて姿が変わるだけの事だと思うんですね。シンプルだけどすごく深淵。ですからある一時期、人間が鎧兜を着て姿が変っていたというのは、進化が人工的に引き起こされたような気がして興味が尽きないです。

Thing of the operation 稼働する事 –Engineering Armor 工学の鎧- 2010年

──形が変わるということであって、生物としての階層を上がったり下がったりするのではないということですね。

はい。だから SF とかで、人間が肉体を脱ぎ捨ててさらに高等なものに、つまり神に近づいていく、それこそが進化だ、という解釈に僕はすごく冷めちゃうんです。

──近頃も、トランスヒューマニズムとか、シンギュラリティとか、人間が機械と融合して神に近づくみたいな話が出てますよね。

そういうふうになってますよね。「人ならざるモノへと進化して更なる高みへ…!」ひとつの解釈かもしれませんが、どうしても「ここではないどこか」の理屈に聞こえてしまいます。
どこかに行く前に、目の前の現実と対峙してはどうだろう?!って思っちゃいますね。

遊びのある科学

──先生のお話を伺っていると、natural historyという言葉を思い起こします。これは博物学とも自然史とも訳される言葉です。博物学は19世紀前半くらいまでの科学で、鉱物、植物、動物を並べて分類していくものです。19世紀後半以降は、そうして空間的にものを並べるということよりも、系図のようにして時間的にまとめていくという発想がダーウィンらを通して主流になっていきます。このダーウィン的な発想を踏まえて、自然史という言葉を使う人たちが出てきます。生物に対する科学的アプローチに関して、何かお考えはありますか。

実は、その西洋科学の得意とする「分類」とか「並び替え」とかいうことに、僕は生意気にもちょっとしたアンチテーゼを持っていて。何か硬さを感じてしまいます。もう少し物事を立体的に考えて、グレーゾーンを作ったり、空白地帯を作っておいたりという、流動性が基本設定されていてもいいのかなという気がするんですけど。

──それは例えば、カモノハシについて考えるときに大きく効いてくる話ですよね。カモノハシがおかしく思えるのは、哺乳類という枠組みから見ようとしているからですよね。なんなんだ、この哺乳類はという。

そうですね。卵を産む唯一の哺乳類ですね。カモノハシって形がすごく美しくて、あれはトリックじゃなくて、実態のある哺乳類だと誰でも受け入れられる。でも、くちばしと卵!これは異様だけど事実です。爬虫類や鳥には見えないけれども何なんだろう…?となりますね。これらを既存の枠に無理に当てはめるよりは、ああいうやつがいるってことを温めておくっていうことが大事なのかなという気がしてですね。
後々、カモノハシの座る椅子が用意されるか、あるいはカモノハシの後ろに見える進化の傾倒が解明されるかもしれない。今はひとまず、いるもの を大切にしておこうという感覚に近いんですかね。実は鎧兜の学問もそうなんですが、体系付けて、グラフの中に全部押し込めようとすると、必ずどこかに矛盾が生じるんです。もう少し流動的に見るべきだと思います。

──それは美術の側からのアプローチというだけではなく、科学自体の在り方も変わる必要があるということですね。

科学も、印象論形態学といった多角的な視点が入っても良いのでは、と門外漢ながら感じています。視覚的に見て美しいからこれは正しいんじゃないかとか、 整理する箱を厳密にしすぎないほうがいいと思っています。知っている物だけで席を埋めてしまうと、新事実が見つかった時に混乱が生じる恐れもありますからね。

Target Marks 1510 2009年

──そこに、先ほど話されていた常識とかセンスによる判断を入れていったほうがよいということですね。

そうですね。分類上こうなっちゃうんだけど、なんかこれはクサイからずらしておこう、余白を広めにとっておこう、とかいったような遊びがあってもいい気がします。

──科学者でない人たちは特に、そのような遊びを残した立体的なものの見方をすることが大事ということですね。

区分けすることに慣れすぎてしまうと、「俺はカレーが好きなんだ、カレーを求道する宿命だ」じゃないですけど、自分で自分を思い込ませるのは割と簡単にできてしまう気がします。実は、自分はカレーが好きなんじゃなくて、「お母さんの作ったカレー」の思い出が好きだったこともありうる訳ですから。

──確かに、自分のことをカレーマニアだと思ってしまうと、実際にカレーマニアの生活をしてしまいそうです。

そうですね。使命感や言い聞かせで動かないといけなくなります。鎧兜だって、多くの人が「日本が誇る文化財を守ってゆくために」愛好している事になっていますが、もう少し自然体というか、格好良さに惹かれる、怖さに惹かれる、色彩に惹かれるといった実感のある意見が出ると温度が感じられますけどね。

生きるためのデザイン

──先生の作品といえば侍のイメージがありますが、日本刀ではなく、常に甲冑を扱われています。刀と桜が並べられるように、日本刀はナショナリスティックな美意識とも関係してきますが。日本刀について、あるいは日本刀ではなく鎧、というところの考えをお聞かせください。

鎧に対しては精神的な畏怖ではなく、生理的な嫌悪感というか「怖いもの見たさ」のようなものを持っています。人間の殻ですね。日本刀は無機的な印象ですが、反対に極めて有機的な物が自分の甲冑観にはある気がします。

──日本刀には美学を感じますか。

もちろん美しいと思いますが、不思議と強い興味が持てません。そのせいか美学や精神的な物もあまり感じられません。甲冑は生物に見えますが、日本刀は生物ではなく無機物にみえる。洗練されたシェイプの物体に見える訳です。でもきっと、太古の昔から生き物と遠いその姿が人々を引き付けてきたような気がします。顔の映らない鏡のような、心が入る余白があると言えるかもしれません。
ただ、苛烈な実用に適した道具であるかどうかというと…少し疑問符みたいな印象もあります。

──他の武器に関してはどうですか。

槍とか薙刀とかには、何か実用的な強度があると思うんですけど、日本刀ってリーチや、構造上の問題から。安全を確保した戦いがし辛い気がするんです。
ただ、昔の人は討ち取った相手の首を切断するのに刀が必要だった筈なので、首を切るための実用具という大前提はあったと思いますけど。

──刀には儀式的なもの、権力の誇示といった別の機能があったのかもしれないですね。

先ほども述べましたが、無機質な姿は文明の象徴に思えます。ゴツゴツした木星にそびえる巨大なモノリスを描いた映画は有名ですが、原始の中で無機的でシャープな姿の物があれば、それは文明を体現しています。3種の神器と言われる、「勾玉」「鏡」そして「剣」どれも流線形で光を美しく反射します。刀が精神的な支柱となったのも、その辺の要因を引き継いでいるからだと感じられます。
一方鎧兜ですが、はたして精神的な物がどのように作用していたのか…。鎧を美意識として捉えると、サムライが死地に赴くための死装束だった、となってしまう訳です。でも、その考えは根本が間違っている。鎧って「死にに行くための物」ではなく、「生きて帰ってくるための物」の筈です。死への誘惑は甘いといいますが、大多数の人間にとって、生への誘惑の方がよっぽど甘いでしょう。
華々しい手柄を立てて、生きて帰るんです。人は誰だって家族や友人のところへ帰りたいと思うはずです。そのために作ったから鎧兜は美しいんだと思います。

サムライ・スタンス 〜武士のみちたる姿〜 2013年

甲冑を勉強すると、あらゆる工夫や試行錯誤が実戦のなかで洗練されていたことが良くわかります。着用者は皆、無駄に死にたくなかったんです。どの時代の人でも同じはずです。 。

──武士は死にたがっているというような、奇妙なイメージがありますよね。

そうですよね。現在でも、自己陶酔のための依代になりがちです。「散る」という言葉で死を飾る事もできますが、独りで散華したってなにも解決しない。自分には養うべき一族がいて、現実は淡々と続いていくわけですから。

生命が纏う哀愁

──ご自身のステートメントには「ペーソス」という表現が登場しますが、ここに先生の人間観が大きく現れているように感じます。「かなしみ」という言葉には「悲しみ」だけでなく、哀しみ、愁しみ、愛しみなど、さまざまな漢字が当てられており、人間の持つ多様な感情の広がりの根っこの部分が窺えます 。ペーソスという言葉には、どのようなものを込めていらっしゃいますか。

ご指摘の通りだと感じます。かなしみに当てる漢字が多いように、やっぱり人間にはみんなどこかに虚ろな部分とか、悲しい部分があるような気がします。集団の中に生きるんですが、たしかに個人がある訳で、その矛盾や軋轢があります。ふと一人になった時に、ぽつんとした自分の存在が気になってしまう。

Thing of the operation 稼働する事 –Haramaki style 紫糸威腹巻 筋兜鉢付- 2010年

僕はひねくれた学生時代は、自分だけがつらいと本気で思ってたんですが、蓋を開けると、自分の持ってた悲しみを、実はみんなが持ってたという事に気付くんですね。大人であれば誰でも持っていますし、子どもでも悲しみって持っていると思います。いじめられて泣いて帰っている友人を見ると僕自身も胸が痛くなった。多くの人がいじめに加担したり、またいじめられた経験を持っていると思いますが、ある種の痛みを共有する事で、誰かが完全に孤立する事を防ぐ勇気を得られるかもしれない。
悲しい思い出は、楽しい思い出と同じように大事だと思います。

──なるほど。そこで喜びや楽しさよりも、かなしみを強調されるのはどうしてですか。

悲しみは蓋をされがちな部分だからだと思います。悲しく無いに越したことはないとも言えますが、僕にはすごく必要な事に思える。それは現実と同じでちゃんと向かい合っておくべき部分で、恐れるようなものではないと思います。きっと僕達を支えてくれる

──これまでは人間も生物と同じように自然の大きなシステムの中を生きているという話が中心でしたが、ペーソスは人間に特有の部分でしょうか。生物とは違ってくるような。

面白いお話ですね(笑)、初めて考えました。僕は個人的には生物は人間に限らず、みんなペーソスを持っているような気がしているんです。ハムスターとか犬とか見てても悲しそうな顔するじゃないですか。僕の勘違いかもしれないですけど(笑)でも、暗い家庭に明るい犬はいない。やっぱり集団の中で、それでも一個体があるという生物ならば、本能的に備わっているものだと思います。

Flying Humanoid 2010年

──生物か人間かということではなく、集団と、その中にどうしてもある個人の関係というものからペーソスが生じてくるということですか。

はい。例えばフィッシュボールの中にいたのに、何かの理由があってポンと出てしまっている魚を見ると、なんとなくその悲しみがあったりするわけですよね。「嗚呼…お魚が一匹… (笑)」

──孤独に近い感覚でしょうか。

集団と孤独が共存してしまうような感覚ですね。

──ペーソスは、かなしみといっても、慟哭とはかなり違うわけですよね。

そうですね。感情の発露とはちょっと違いますね。もっと内向的で、少しづつ蓄積していくようなものですね。

──そして、滲み出てくるものでしょうか。

ガマの油のように(笑)でも、「苦労の末にじんわりと浸み出す何物か…」と演出過剰になるとちょっと違ってくるので、これもはしゃぐ必要はないと思います。

──なるほど、自然に出るものなのですね。

Un samouraï vient 2012年

そうですね。

考える蛙であること

──先生は鎧について語るときに「生存競争」という表現を使われることがありますね。すべての生命に生存競争を見るとなると、ご自身の制作活動も生存競争ということになるかと思います。その活動に関しては、どのように理解されていますか。何を目指して、というような。

生存競争っていうのは、おそらく、人間も生物と考えるならば、生きているのか、環境に合わせて生かされているのか、結果的にいろんな営みが残っていくと思うんですね。そのことを僕はできるだけ多く知りたいと思っていて、結果的にはそれは美しい姿になると思います。それを形にしていきたいんですね。学者の皆さんが研究の成果を、論説を一つまとめて発表していくみたいに、僕も何か視覚的に形に残るものとして残していきたいと思っています。
生存競争と言っても解釈に幅があると思いますが、僕は同じ種族の中で競争するというよりも、新しい環境に適合していこうとか、繁栄していこうとか、そういうことを表したいと思っています。ライバル競争ではなく、自然の秩序化での進化に近い印象です。

──広い意味での生命活動というようなことですね。

猫松下行進図 2015年

そうですね。生命活動とか環境適合とか。人間は多くの動物と同じで生涯であまり長距離を移動しませんし、場合によっては数キロ範囲で人生を過ごす事だってあり得ます。でも、英知を持てば必ずしも、身一つで世界に出なくても、日常から多くの事は学習できます。「井戸の中のカエル」でいい気がします。少なくとも僕の制作には平凡な日常から学んだ事しか入っていません。

──「井戸の中のカエル」ですか。

「井の中の蛙大海を知らず」って、人によっては「井の中の蛙大海を知らず、されど空の深さを知る」とか、「空の青さを知る」と補足される事もあるんですが、生意気を言うと井戸の広さを把握することと空の青さを把握することはそれほど変わらないように思えます。
空の青さよりも、もっと具体的な事が知りたい。蛙は井戸の中から出ることはできないんですが、空を眺めていると、鳥が横切ったり雲が動いたりするのは把握できる。まるで部屋の中でニュースに触れる僕達みたいに。井戸の外には自分以外の生き物がいるんだなと理解できる。雲が流れていたり、雨が降ったりすると、どうやら空には天候があるらしいと、も っと進んでいくと、どうやらそれは周期があって巡っている、四季の存在に気が付きます。 そうやって生涯出る事のない井戸の外界を知覚する事が出来るはずです。「井戸は広大な世界の一部なんだ」と。
盲目のヘレンケラーが冷たい水に触れて「水」の存在を認知したように、学ぶ意欲さえあれば、暗闇に光が差す事だって夢じゃないはずです。
現に、僕たちは地球から一歩も出たことがないのに銀河系の始まりや広さを推測している。別に銀河系の外に行かないと買い物ができない訳じゃないのに(笑)
願わくば、そういう「考える蛙」でありたいということですね。

2017年8月『野口哲哉ドローイング展 〜鎧と鉛筆〜』より

──それは面白いですね。よくある日本のお説教だと、深さに徹しろというような心の態度の話にされがちで、それが科学や技術のようなものと結びつかないことが多い印象があります。その態度をどのように育み、実現していくかが問題だと思うのですが。

小さな井戸にふて腐れずに、見える物を貪欲に楽しみたいですね。考えるカエル、そんな井戸が世界中にたくさんあれば、それだけで世界は意味のある物になると思います。


今回のインタビューを通して、さまざまな問いが生まれてきた。野口氏の議論を整理しながら、少しこれらの問いについて考えてみよう。

現在開催中の『野口哲哉作品展 armored neighbor 〜鎧を着た隣人〜』より「〜音楽の寓意〜 フェルメールに基づく」

リアリズムとは何か

野口氏が用いる意味でのリアリズムは、単に今の世界を写し取るというものではなく、事実に立脚しつつ、ユーモアと想像力を駆使して、資料が十分に残っていない過去の世界にも、どうなるかまだ未確定の未来の世界にもアクセスすることを可能にするものだ。そればかりではなく、そのような過去や未来の認識を通して、現在の世界をこれまでとは違った仕方で捉え直すことを可能にする。近年の野口氏の作品の中には、江戸時代と近代ヨーロッパの同時性に着目したマッシュアップ作品群が存在する。このような作品を前にする時、歴史の理解に新たな光が与えられる。

このような野口氏のリアリズム理解は、私たちのリアリズム理解に揺さぶりをかけることになる。

野口氏のリアリズムとは異なるタイプのリアリズムも考えられるのだろうか。あるいは、他の通常のリアリズムとは異なる意味でのリアリズムとの関係をどのように考えるべきだろうか。例えば、意識よりも無意識の方に一層現実的なものを見るシュルレアリスムのようなものをどう考えるか。

また野口氏のリアリズム理解に賛同する場合には、このリアリズムを作品制作や科学以外の場面で用いると、どうなるかということを考えるのも面白いかもしれない。
例えば、自分の学校や職場には、その集団内の人間関係を動かしている隠れたシステムがないだろうか。意外なものが、そのシステムと類似した構造を持っていないだろうか。

自然とは何か

野口氏は、自然とは何かという問いに答えるためのヒントを提示している。

人間の世界では、個々人が思い思いに動いているように見える。しかしそこに野口氏は生物としての人間にも当てはまる自然の秩序を見る。しかしそれだからといって、野口氏は個々人の生き方もすべて自然の秩序によって決まっているという意味での、単なる決定論を取らない。そのような決定論は、自然を単に私たちの外にあるものとして捉える見方である。むしろ、野口氏は、私たちの内に生きられているものとして自然を捉えている。野口氏は、その都度の状況に合わせて、不自然さに気づき、自然な調和を求めるコモン・センスとしての常識を信頼し、自然と身体や心が教えてくれるものを人生の指針として信頼する。このように内から捉えられた自然は、名詞的に「自然界」といわれるような領域を表すものとしての自然より、「自然な」といわれるような形容詞としての自然という意味を持っているように見える。

このような自然さを、私たちは常に持っているわけではない。むしろ一面的なイメージである固定観念にとらわれ、他人についても自分についても歪な像を抱きがちである。いつも自然な在り方、等身大の在り方を求めて、自分なりに成長していくことができるわけではない。自然さを失っている人が、それを獲得するにはある種の気づき、ある種の自由が必要になるのではないか。

このような自然観に賛同するならば、どうすれば自然な成長を遂げることかできるのかという実践的な問いに進むこともできる。
このような自然観に疑念がある場合には、一層深く自然観を再考する必要が出てくるだろう。

美とは何か

野口氏は美に関しても独特の視点を提示している。一方で野口氏は、鎧兜を美学的なものの入る余地のないものとして捉えて、それを美学的なものと結びついている日本刀と対置している。しかしそれと同時に、鎧兜に何らかの美を見出している。美意識と関係付けられた美は、精神的なものの美というべきものである。そのような美には内面的な深さが見られる。それに対して鎧兜に見られる美は、実用的なものの美というべきものである。実用的なものの美が見られるものには、生き残るためにデザインされたものが有する「強度」がある。

日本刀も鎧兜も、道具である限り、実用性を有しているが、戦場での殺傷のために最適化されていない日本刀は実用性よりも精神性に傾いていると言えるだろう。使えるかどうかと美しいかどうかは別の基準であり、ほとんど使いものにならないが美しく見えるものを追求することもできる。それに対して、鎧兜は戦場で生き残るために最適化されているため、実用性に傾いていると言えるだろう。だからといって鎧兜は個性を欠いた味気ないものではない。そこに内面的な美意識とは異なる仕方での精神性を見ることもできる。

また野口氏の表現する侍たちからは人間の美に関して考える手がかりも得られる。人間の美しさの多様性というものが、今の社会では十分に認められているとは言い難い。日本のファッション広告にもかかわらず白人モデルばかりが起用されることがあったり、特定のタイプの人のみが「イケメン」や「美人」として評価される傾向があったりする。野口氏の表現する侍達は、整った顔だちをしていたり、特別なカリスマ性を帯びていたりするわけではないが、彼らの表情や姿には固有の魅力と趣を感じる。このような魅力や趣は、誰もが環境に適応しつつ生きている存在として有しているものなのではないだろうか。

デザインとは何か

美の問題は、デザインの問題とも関わっている。鎧は、生き残るためのデザインであった。デザインは時に、機能、使いやすさ、実用性といったものと、美、趣深さ、精神性といったものが最大限に両立することを目指して道具の形を考案する営みとして理解される。この場合、機能と美は互いに無関係であり、その無関係なものを結びつけるのがデザインと考えられることもある。しかし鎧兜の場合、野口氏の理解に従えば、単に戦場で生き残り、武勲を証するというような機能の追求のみが行われており、それが独特の美を湛えているということになる。しかも、これは一種の機能美なのであるが、鹿の角や鳥の頭の兜は普通機能美ということでイメージされる一寸の無駄のない機械のようなものとも異なっている。機能美についても、何を機能と考えるかに応じて、異なる理解が生じると考えられる。

このような機能美に関する議論を、私たちの日常の中で考えてみるのも面白いだろう。例えば、普段生活するための道具、衣服、食器、電子機器等々を選ぶ際に、何を基準に選んでいるのか、あるいは何を基準に選べば一層生活は豊かになるのかという問いを立てることもできる。

芸術作品とは何か

野口氏が制作している作品は、生き残るためのデザインとして作られた鎧兜をモチーフとしている。鎧兜は実用性と結びついた道具である。それに対して、野口氏の作品は、それ自体は実用品ではなく、単なる鑑賞の対象となる芸術作品である。しかし芸術作品は、道具と異なる仕方で、何らかの機能を有しているように見える。

例えば、野口氏の作品は、これまで当たり前だと思っていた物事の見方を疑わせるとともに、新しい物事の見方を立ち上げることを可能にするという機能を有している。

単なる道具とは異なる意味での芸術作品の機能とはどのようなものだろうか。また道具でありながら、芸術作品の役割を果たすものは存在するだろうか。例えば、柳宗悦が提唱した民藝では「用即美」という理念が提示され、素朴な器が独特の精神性を帯びたものとして捉えられている。


今回のインタビューでは、野口氏の制作の態度や思想にスポットライトを当てることを目指したため、野口氏の作品そのものをほとんど扱っていない。

野口氏の作品と向き合うことで、このインタビューの中で出てきたさまざまな問いを深めると共に、新しい問いを発見することができるはずだ。本インタビューに登場した作品の一部は作品集『侍達ノ居ル処』(青幻舎)に収録されている。

12月1日から12月16日までギャラリー玉英で、野口哲哉作品展「armored neighbor ~鎧を着た隣人~」が開催されている。

野口氏に関する情報は、ギャラリー玉英の運営する野口哲哉公式FacebookおよびギャラリーのWebページtwitterから得ることができる。

野口氏の作品について、twitterのハッシュタグ「#野口哲哉」を利用して、自分の意見を発信し、他の人と交流するのも刺激になるかもしれない。


野口哲哉
1980年、香川県高松市生まれ。広島市立大学芸術学部油絵科卒、同大学大学院修了。在学中から鎧兜を手掛かりにした作品を制作し、変わらない人間の姿を探求する作品制作を展開