Dialog

なぜ侍がヘッドフォンを付けるのか。現代美術家・野口哲哉のリアリズムに迫る

鎧兜をモチーフとした斬新な作品を数多く発表し、近年脚光を浴びている現代美術家の野口哲哉氏。今回nebulaは野口氏に単独インタビューを行った。
野口氏の作品は、一見するとユーモラスで奇抜なものに感じられる。しかしその背後には冷徹なリアリズムがあるという。それは一体どういうものなのか。

All photos by Gallery Gyokuei

甲冑に恐怖を感じる

──鎧兜をモチーフにした制作をするようになったきっかけについて教えてください。

Phantom of a helmet 2011年

鎧兜は小さい頃から大好きだったんですが、当時は…というか今もなんですが、その理由がよく解らないですね。僕が鎧を選んだというより、良いのか悪いのか、鎧に選ばれたような感覚に近いでしょうか(笑)。
でもそれは特別なことではなく、理由もなくラーメンが好き、オムライスが好きというのと同じだ と思います。自分がカレーを選ぶのか、カレーが自分を選ぶのか(笑)それをずっと、今も追求している感じに近いんです。 自分が好きな物の理由を考えることは楽しいものですが、好きな理由を抽象論で飾ったり、特別であるかのように無理に思い込むよりも、もっと具体的で、実感に根差したものでありたい。
思えば、自分には鎧兜が生き物に見えて仕方がないんだと思います。生物の外殻に見えるんです。鎧は人間の外殻に見えます。 初めて鎧兜を見たときには、怪物の剥製が飾ってあるようでなんだか怖かったんですね。今でもやっぱり怖いんです。

──どのような怖さですか。

剥製がずらっと展示されている部屋に行くと、神秘的なような、怖いような。子供っぽいかもしれないですが、怖いものみたさとか、好奇心が刺激されるんでしょうね。なんかそこには美意識とか美学とかいうものが入り込む余地がなく、それはもっと原始的な怖さという気がしますね。ですから、歌舞伎や時代劇で描かれる武士の姿がかえって、非現実的で虚構に見えてしまいます。 勿論、それ以外の素晴らしい要素を持っているとは思いますけどね。

──これまでのインタビューの中で、子どもの頃から模型に関心を持っていたこと、美大では油彩画に取り組まれたことを語られてきました。模型と油彩と、鎧兜はどのように関わっているのでしょうか。

小さい頃から、リアルな表現に惹かれていました。模型もリアルに作ろうというものですし、写真登場以前の西洋絵画も写真と同じ役割を果たすもので、リアルに描くことを目指しているものです。
リアルなものが好きという事と、鎧兜が好きというのは根っこがつながっていたのですが、それが上手く統合できるまでずいぶん時間がかかってしまいました。

TRANSMISSION〜ジャーマン・スペシャル〜 2017年

事実を知ることが最大の娯楽になる

──10年以上鎧兜をモチーフとした制作をされている中で、心境の変化や問題意識の変化のようなものはありましたか。

良くも悪くもほとんどないですね。自分が楽しんでやっていること、自分のやっていることっていうのが、生涯をかけてやっていく甲斐がありそうだという確信は深まったという気がしますね。暗中模索だった時期があるんですけど。
まだまだ勉強すべきことがたくさんあって、楽しそうだなと思っています。

Avatar 1 ~現身~ 2016年/Avatar 2 ~現身~ 2016年

──一つの問題意識、コアがあって、それにさまざまな角度からアプローチするという感じでしょうか。

そうですね。一つの問題意識というのが、固定されたまま何十年も持続するのか、一つの問題意識が変化しながら、それに絶えずアプローチしていくという感じになるのかはまだわかりません。人は絶えず変化していくものなので。ただ自分が変わることはやぶさかではないと思っています。常に人間に対してドキュメンタルでありたい、ドキュメンタリズムを保ちたいと思っています。

──ドキュメンタリー番組はご覧になりますか。

歴史番組はほとんど見ないですが、例えば世界大戦や経済、民俗学のようなものを扱う歴史に関するドキュメンタリーを見るのは大好きです。

──娯楽性を追求するよりも、事実に根ざしていることを重視するということでしょうか。

そうですね。それが結局一番の娯楽になると、僕自身は信じているんです。娯楽と言ってはちょっと不味いんですけど。知的好奇心に近いですね。

実物はノイズを放つ

──日本画を模した平面と、人物の立体を同時に制作されていることがあります。平面には日本語のタイトルが付けられ、立体には英語のタイトルが付けられていることが多いですが、この二つの関係についてお聞かせください。

星と月 2011年/Moon and Star 2011年

おっしゃっている通り、僕は平面を日本語で作っていて、立体は英語で作っているという感じがしています。でも、基本的には僕はドキュメントを語りたいと思っているので、日本語でドキュメントを語るか、英語でドキュメントを語るかというくらいの違いかなと思っています。
ちょっとややこしいことなのですが、ドキュメントを再現するには英語がふさわしく、日本語では不向きではないか、というちょっとした先入観があると思うんです。
例えば、江戸時代に侍を描いた浮世絵なんかを見ると、素敵な絵画であっても、ドキュメントじゃないという印象がします。今の勇ましい武将のイラストと同じですね。見栄を切ったお芝居の世界を描いている感じがするんです。でもだんだん時代を遡って、桃山時代なんかになると「何かを演じている人」ではなく、甲冑を着た当事者の肖像スケッチになってくる。それは一見武者絵にみえても、ドキュメント絵画です。ヒーローを仮託して描いているのか、戦場カメラマンのように現場でスケッチして描いているのか、これは大きな違いです。
ヒーローを仮託して描いているか、戦場カメラマンのように現場でスケッチして描いているか、これは大きな違いです。見た目はよく似ているんですが、僕にはかなり異質のものに見えます。

──どういった点で異なっていると思いますか。

ヒーローとしての甲冑像や武者絵の多くは「今とは違う人間や世界観を見たい」という作者の願望を仮託されがちです。その事がかえって絵からリアリティを奪ってしまう。どれだけ戦場で血にまみれていても、あるいは細部の考証にこだわっても、生々しさとか人生への執着といった、生命の根源としての美しさが宿らないんです。現実が持っているノイズって、現実と対峙して初めて読み解く事が出来ると思います。良いとか悪いとかではなく、感覚的にドキュメントであるかどうかは、自分にとっては大切です。

作品の姿は材料が決める

──先生の立体作品は、模型のように机の上に乗るサイズのものが多いですね。ただ、リアルということで考えると、鎧兜を着た人物を等身大で作ることが理想となるようにも思えます。それはコスト的な理由で難しいとも思いますが、大きさに関するこだわりはありますか。

僕にとって一番大きい必然というのは、コストと場所の問題ですね。僕は机の上で作れるものを作りたいと思っているので、模型に似ているのもどこか必然性があるのかもしれませんね。
僕がもっと大きな家に住めるようになって、大金を投じて作品を作れるようになったら、作品も自然にもっと大きくなるかもしれませんね(笑)。

──先生は、何分の一というように特定の縮尺にこだわっていらっしゃることがありますが、それはどうしてなのでしょうか。

シャネル侍2分の1縮尺座像 2007年

こだわる必要はありません。材料の紐がそれしかなかったとか、そういう切実な問題があるんです。例えば自分の手元に紐があったとして、紐の太さは決まっているんですね。1/2にすると細くなりすぎるとか、1/10にすると太くなりすぎるとかなると、電卓を叩くと自然に逆算されてしまうので、もうしょうがないんですね、それは。
ですから見たことのない紐が見つかると、それに合わせて新しいサイズの作品が出て来るということはこれまでもありました。

──材料の規格によって、作品の在り方が決まってくるわけですね。

でもそれは人間にとって一番大きい必然で、竹が多く取れるところでは竹の文化になりますし、石が余っているところでは石の文化になります。水が大事って言いますが、地球は水が有り余るから僕たちの身体はほとんど水で出来ているわけです。たくさんあるものを使うのは自然のことに思えますね。

──それが先生の制作にとっては産業的な規格だというのは面白いですね。

制度は変わるが人間は変わらない

──しばしばリアリズムがご自身の制作態度の根本にあると語られてきました。ここでのリアリズムは、普通のリアリズムとは異なっていますね。

「あるものをそっくりに写す」のがリアリズムと言われていますね。

──それに対して、先生のリアリズムはどのようなものでしょうか。

これは僕の作品に限らず、みんなが潜在的に思っているけれども、表立っては言葉にしない、言葉にできない部分だと思うのですが。例えば、SFはモチロン絵空事なんですが、確かにリアリティを感じるんですね。
SFに限らず時代劇もそうですが、それらをリアルに見せるのはディテールだと一般には考えられている。僕の作品でも同様かもしれません。細部までそっくりに作るという。
もちろん、細部の説得力は大切ですが、SFなどの仮初(かりそめ)の世界がリアルに見える本質って、「今とは違うルールの中で、同じ人間ならどうするか?」つまり、「人間が描けているかどうか」が成功しているかにかかっているように思います。
僕の作品でも同様に、「そっくり」にする事以上に、人間はどうするか、人間はどんな生き物か?という問いかけを自分自身にしてゆきたいです。鎧兜だって人が作った物である以上、人間を探る手掛かりになると思っています。「武士の心」を知る前に、まず「人の心」を知りたいですね。

──先生は、武士がヘッドフォンを付けている作品のように「マッシュアップ」という手法を用いられます。これも、同じ人間ならどうするかというような発想に依拠しているんでしょうか。

誰モ喋ッテハイケナイ 2008年

「僕たちがどうするか」というように、「この侍たちがどうするか」ということですね。同じ人間ならこれをするんだろうとかしないだろうとか、ここの実験というか、シミュレートというか。

──人間は歴史と共に変わっていくとも考えられます。100年前までヨーロッパでは同性愛が犯罪であり、それで牢屋に入れられたりしていたわけですが、今では同性愛カップルの結婚を法制度化する国も増えてきました。江戸時代も身分制社会だったわけですし、現在と比べて結構変わっている側面もあると思うのですが。

僕はこれがリアリズムの骨子になると思うんですが、「人間は時代によって変わるもの」という漠然とした先入観ってあると思うんですが、実は変わっているのは社会の法律や法則だけであって、中身の人間は変わっていないという印象を僕は強く持っています。

──それは例えば、結婚の制度は変わるけれども、同性愛者は常に存在するというようなものですか。

はい。時代によって同性愛を禁止する時代も奨励する時代もあると思うし、それは多分今後も繰り返されていくと思うんですが、同性愛者の数自体は増えもしないし減りもしないというのが僕の持論です。
歴史によって変化していく社会のルールの中で、どこが変化して、どこがしていないか、これを見極めるのはすごく楽しいですね。それを誤ってしまうと、「昔の人はどうせ今の人と違うから、こういったことができるんだろう」、という事になります。 そうすると、翻って現代の文化に適用しても、「彼はこういうキャラだから」とか「あの民族はそういうモンだから」とか、なんか相手に対する先入観や思い込みを押し付けてしまう原因になる気がします。
自分の住んでいる世界とは違う法律の世界、でもそこには同じ人間が居る。これは過去も未来も、そうでなくて外国の人でも同じ事です。つまり、過去の人を正確に知る事は自分にとってドイツ人や中国人を知りたいと思う事とあまり変わらないのだと思います。でも、かくいう僕も「中国の人は全員卓球が上手い」みたいな変な先入観がありますけどね(笑)他人の事をとやかくは言えない(笑)

リアルを変えるファンタジー

──先生のおっしゃる意味でのリアリズムは、科学とファンタジーの中間、あるいは両面を一つにするようなリアリズムと表現できるようにも思われます。こうした表現について、どのような印象をお受けになりますか。

僕は実はファンタジーなるものは、いいのか悪いのか、あんまりピンと来ないですね。自分の作品にあまり接点を感じない。

──ファンタジー作品をご覧になることはありますか。

もちろん、作品として嫌いじゃないですよ。例えば指輪物語であったり、オズの魔法使いであったり、神話の類も大好きです。もっと言うと、宇宙人は本当にいるのか?お化けは本 当にいるのか?そういうものを良い距離を保って娯楽の中に取り込んでいる物って、僕は大好物ですね(笑)

──ファンタジーという表現にピンとこないけれども、所謂ファンタジー作品に興味をもってらっしゃるというのは、どういうことでしょうか。

僕はファンタジーにどこかリアリズムの種を感じるんですね。ファンタジーという名前を借りているけれど、そこに現実の種がある気がして。現実に対するアプローチに思えるんですね。
例えば、アイザック・アシモフの短編で、壊れたロボットを二人の人間が回収しに行くという話があります。そのロボットは、自分が人間であると思っていて、自分を回収しに来た人間の方が壊れたロボットだと思い込んでいる。当然押し問答になってしまう。
「あなたたちは自分を人間だと思ってるのですね…可哀そうな壊れたロボットだ。」
「なんだとお前!? お前が壊れたロボットで俺たちが回収しに来たんだ!」
「はいはい…、そりゃ壊れてると、そう言いますわね…」
といった感じの掛け合い(笑) 物語の最後、上司に報告するために現場を離れた二人は、
「あれほどロボットが確信をもって言うのだから、ひょっとして自分たちこそロボットじゃないのか…?」と、ちょっと心配になる、と言うというお話なんですが。 おそらく当時の例えばアメリカとソ連の価値観の対比とか、資本主義と共産主義どっちの理論が正しいのか?という素朴な問いをかなりダイレクトに反映しているように思います。そう思うと、文学作品の多くは、というより実はほとんどが、実社会にあることをモデルベー スにして書いているのかな、と思うんです。それはたとえば、ウルトラセブンとか、最初のガンダムとか、なんでもそうなんですが「直言を避けつつも、何かを伝えようとしている」というリアルの種を感じます。
そうではなく、「これは現実と違うファンタジーの話なんだ」、となってしまうと、せっかく作り手が込めた種が現実に還元できなくなってしまう。つまり花は咲かないんです。

──科学かファンタジーかというよりも、リアリズムを強調するというスタンスなわけですね。

はい。現実を見据えると大体の謎は解けるような気がしています。ファンタジーというのは、現実から逃避するための娯楽、として捉えられることがあるんですが、実はファンタジーの持っている本質って現実と向かい合うことにあると思うんです。現実から逃げるためにアニメを見るとか、美化された歴史ロマンに逃避してしまうと、少し勿体ない気がしますね。
せっかくなら現実と向かい合うために、アニメを見たり歴史を勉強したりすると、自分の生きている実生活がより豊かになるじゃないですか。これは自分自身が心底、苦い青春を送ってしまったから(笑)、ある程度の自信をもって言える事だと思います。

──なるほど。「アニメを見てリアルを充実させよう」ということでしょうか。

そこは微妙な問題かもしれません(笑)。アニメや歴史だけを見ても現実は充実しません。自分の力で行動して、リアル(現実)を充実させる事で、もっと健全にアニメや歴史と向かい合える、という事です。現実と向かい合うには大変な労力が必要ですが、本当に大きな成果があります。

温かなリアリズム

──先生の制作は、知識を冷静に形にしていくというよりも、知識を通して侍の心に共感していく営みという印象を受けます。現実を把握する上で、感情の役割を重視されているのでしょうか。

そうですね。温度はあってほしいですね。リアリズムってすごい真面目なものじゃないといけないとか、何か他のものを挟み込む余地がないとか、お堅いものっていうイメージがあるんですが、お堅くなくてもリアリズムでいいじゃないっていう気はするんですよね。

侍がサントリーに行く 2008年

──そこは面白いところですね。何かを外側から観察するのではなく、内側から把握していくということにつながってくるかと思います。それは過去の人に対して勝手な妄想を膨らますこととは違うものですね。

「イイカゲン」じゃマズいですが、「良い加減」であればこそ、理解できるものもたくさんある気がする。あらゆる可能性を等しく考えるのが真摯な学問なら、一見、馬鹿馬鹿しい可能性を考えてもいいんじゃないかと思うんですね。

──ある種の匙加減を持つことによって、こんな感じだろうかというような仕方で想像力が活性化していきそうですね。

そうですね。誰でも疑問に思うことなんですが、あまりにも馬鹿馬鹿しいと思って考えないこと。でも、真面目に考えてみれば何とかなる事って意外にたくさんあると思うんですよね。答えを諦めていたのに、それが見つかる。これはすごく希望があると感じます。

また脱線もイイところで本当にスミマセンが、ある時に、なんでハヤシライスが ハヤシライスって言うんだろうっていうことが気になったんです。リサーチしていくと、「ハッシュライス」が訛ったものと「林さんが開発した」という説、この二つまでは絞れるらしいんですね。ただどっちが正解か、真相は永遠の謎。とされている。でも、もうちょっと突っ込んで考察していけばわかる気がするんですよ。もし林さんが作ったからハヤシライスだとすれば、中島さんが作った中島ライスとか、田中ス ープがあっていいはずですが、なぜかないんです。日本では料理に人名よりも、地名が付く傾向が強いわけです。「明石焼」とか「広島焼」ですね。ということは林さんよりも、ハッシュの方が可能性が高い。調べていくと、海軍の古い記録にハッシュっていうのを和訳したときに「囃す(はやす)」というふうに 書いてるんですね。ものをハッシュして炒めるというのが、踊っているみたいに具材が見えるわけです。「お囃子(おはやし)」ですね。ものを囃し立てるという。それでハッシュに似ているから囃しでいこう!というので、炒める具材のライスがハヤシライスになったのではないか、というのは説得力があるはずです。じゃあなんで焼き飯のことハヤシライスと言わないのかという気は少しするんですけど(笑)

──それは先生がお考えになったのでしょうか。

はい、何の得にもならないのに(笑)。いつもそんな事ばっかりなんです。
鶯の鳴き声はなぜ「ホーホケキョ」なんだ?!あれ?法華経(ほっけきょう)と発音が同じだ!でもその先はまだ解らない!とか(笑)

常識への信頼

──文化史の議論では、しばしばダ・ヴィンチとゲーテの類似性・親近性が語られます。それは二人がいずれも「眼の人」と特徴付けられるからです。その「眼」は、何かを見るときに、外的な形から内的な本質を洞察することができ、さらにその変化を通して変わらない普遍的なものを直観することができるというものです。二人の中で感性と知性が一致しています。
しかし哲学者・文化史家である下村寅太郎が強調しているように、両者には違いがあります。ダ・ヴィンチは分析し工作し発明する画家・技術家であるため、「眼の人」であると同時に「手の人」でした。それに対して、ゲーテは詩人であり、「手の人」ではありませんでした。そのため、「眼」の性質も異なっています。ゲーテの科学は、形態の観察に基づく科学、光学と植物学と鉱物学になりますが、ダ・ヴィンチは、物理学のような数学を用いた自然科学でも多くの業績を成し遂げました。
先生には、「眼の人」と「手の人」の両方の性格が見受けられますが、このような「眼」や「手」について、どのようにお考えでしょうか。

僕はレオナルド・ダ・ヴィンチもゲーテも気持ちはよくわかる気がして、周囲が分析するほど二人はあんまり違わないと感じます。どちらも、ぱっと見は異なるものが自分の中で分かち難く結びついていた人だと思うんですが、でも「目」と「手」の関係は、一部の天才だけではなく、誰にだって備わっている気がしています。たとえば「ティラノサウルスは毛が生えていた」という説があるじゃないですか。それで満を持して復元CGが出たときに、(あれ?なんかちょっと違うんじゃない?!)ってみんな思う訳ですよ。毛が生えていたのかもしれないけれども、これはまだ、完全な正解じゃないだろう、まだ美しくないと。そこには「モルフォロジー」という形態学が働くんですよ。
生物として美しいかどうか、それは別に芸術家でなくても、チビッ子でも、おばちゃんでもなんとなく感じるはずです。具体的にそれを言葉にしたり、造形できるかどうかは、本職かどうかの違いなんですが、みんな心のどこかでは気づくことだと思います。

──みんなが「眼」を持っているわけですね。

はい、みんな持っていると思います。昔はティラノサウルスってゴジラみたいに尻尾を引きずっていたわけです。今になって思えば、あれっていつか尻尾が擦り切れちゃいそうですけどね。そうしたら、ある時点から研究が進み、ティラノサウルスのお尻がすっくと立ち上ったんです。足を起点に首と尻尾が地面と水平になる。それを見たときに、多分こっちが正解だろうとみんな思うわけです。形態学上の美しさや強度が、前説を凌駕して皆に受け入れられてゆく。そうやって、研究と造形いうか、目と手で真実が探求されてゆくと素敵ですね。

──先生は、これまでミミヅクの兜だとされていたものがネコミミの兜であるという説を提唱されています。このような仮説の着想を得られるのは、どうしてでしょうか。それには制作の経験が関わっていますか。

着甲武人猫散歩逍遥図 2008年

それこそ、「モロフォロジー」というか…形態学の問題ですね。僕はあれを見て直感的に猫を造形していると感じたのですが、やっぱり色んな初見者が「戦国時代にネコミミの 兜があった!」とネットで話題にしているみたいなんです。ちょっとはしゃぎすぎな場合もありますけどね(笑)、それで博識な人が、「あれはミミヅクですよ、残念でした」と知識を披露してしまうんですね。でもここからが面白いんですが、実は「ミミズクの兜」という呼称自体が戦後になって便宜上付いたもので、制作当初の名称は不明なんです。
つまり何をモチーフにしたかは白紙に戻ってしまう。
形態学の話に戻りますが、もしもミミズクなら、耳の造形を「袋状」には絶対に作らない。ミミズクの耳がそうなっていないからです。江戸期以前のミミズクの造形物でも袋状には作っていない。絵画でも同様です。図鑑も写真も無い時代に制作者がちゃんと実物を観察している証拠です。
他に袋状の耳と言えば、「猫」か「犬」、あとは「コウモリ」もそうですね。じゃあどれだ?と考えてみると、まず、「犬」は「犬死」に通じてしまうから武具の意匠には不適切とされています。実際に遺物は殆どありません。ではコウモリですが、それなら耳よりも特徴的なツバサを造形した方がデザイン映えするし、実際にコウモリの意匠は翼が目立つように描かれる事が多い。という事は、あれはネコミミの可能性が高い。念のために、トラという事に対しては、最大の特徴である「シマ模様」を描いていない事から排除しても良いと思います。

──制作をしていないとわからないというのではなく、誰でも最初はネコミミに見えるのに、既存の知識で考えようとすると、ミミヅクになってしまうということなんですね。

はい。良くも悪くも、大人だと目が曇ってしまうんです。「侍に猫はないだろう」とか「分厚い本にミミズクとかいているんだから」とか。子どもはそういうのを気にしないセンスを持っているんですが。

──そういったセンスは鍛えられるでしょうか。

きっと鍛えられます。自分の感じたことに格好つけずに向かい合う事です。
周囲の目を気にして自分のセリフを考えているようでは純粋な思考は出来ませんよね。

──なるほど。ただその後、先生は実証を行います。普通の人はそうしないし、子どももそうしないわけです。

子どもはツールがないわけじゃないですか。一方、大人は子供より財力もあるし、ネットの力も使えるわけです。今ネットを使って情報をつなげていくと、大体のことってわかるんですよ。まあネットじゃなくても、辞書でも図鑑でもなんでもいいです。

──では誰でも実証までやりやすくなっているということですね。

はい。ハヤシライスの仮説も偉大な(笑)ウィキペディアから導き出したものです。先人たちが伝えてくれた貴重な情報を引き継いで、最終的に仮説を出していくということになります。
ただ氾濫する情報の中で50%くらい怪しいんですよ、ネットって。50%は良質ですけど。その見極めが結構大変なんです。

──見極めのコツのようなものはありますか。

それこそ、子どもの頃と同じように匂いに頼らざるを得ないんですけど、自分にとって心地いいからといって盲信的にならないい事ですね。常識的によく考えて。

──先生のおっしゃる常識というのは、知識の集積というよりは、より原始的な、子どもが持っているものの延長線上にあるものでしょうか。

子どもが持ってる感覚には、大人になっても実用できる知識や情報が多く含まれていると思うんです。子供が社会の中で生きた六年や七年の蓄積ってあながち馬鹿に出来ないはずです。大事な初期設定みたいなかんじですかね(笑)

──一方で、その常識が僕たちの目を曇らせることはありませんか。

常識が曇らせる、確かにあり得ることです。

──おそらく日常言語でも哲学の伝統の中でも、常識には二つの意味があると思います。一つは、コモン・センスと言われるような、いい意味で誰でも持ってる物事を把握する能力のことです。もう一つは、常識にとらわれるなと言われるように、先入観のようなもののことです。

その後者の常識っていうのは、「固定観念」って訳した方がいいと思います。
「常識」と「固定概念」、この2つは明確に区別されるべきですが、曖昧な部分もありますね。流動性がなければ、常識は固定概念や先入観に化けてしまう…。何だかそんな気がします。

──物事に初めて向き合って、新しい知識が生まれるときに働くものが常識ということですか。

そうですね。例えば、「常識で考えてみたら人間が空なんて飛べるわけないだろ」とずっと言われてきたと思うんです。「常識的に考えて、人間が自力で空を飛ぶとは思えない。…ということは、更に常識的に考えたら何か補助動力が必要だ」という考え方が飛行機を生んだと思うんです。この場合は飛べないはずだという固定観念に対して、飛びたいんだったら補助が必要だ、という常識が働いたわけですね。

SAMURAI WING 2014年

豊かな現実に向かって踏み出すこと

──一貫してリアリズムを標榜されていますが、リアリズムを追求する際に「面白さ」を大変重視されている印象があります。この面白さについてより詳しく教えてください。

「どうせ現実はつまらない」と言われる事があると思うんですけど、現実が一番面白いと思うんですね、遺憾ながら(笑)。現実から逃げたい一心で歴史にのめり込んでいた自分が、絵を描いたり歴史を勉強する中で現実と向かい合うことが出来た。現実は対峙する人の心象で変化しますからね。

──特にどういう点が面白いですか。リアリズムという場合も、目の前にいる人や社会に向かう場合と、過去にあったもしれないものに向かう場合とでは、かなり違ってくると思います。先生には過去への志向が強いという印象がありますが。

S家当主像 2013年

いいえ、過去の物を見る事も、現実で自分の周辺を見る事も基本は同じだと感じます。
ヘンテコに見える兜を被っていた背景にはそれを必要とした当時の社会ルールがあったからです。録画機材の無い時代、論功行賞をスムーズに行うためには目撃情報を確保する必要があった、つまり個体識別の役割ですね。現代ではあんなデザインは非実用的に見えますが、条件が整えば、今だって奇妙な造形物が発生します。ルールに適応して、時々規格外に見える回答をはじき出す、これはどの時代の人間も共通している事だと思います。

きっと未来人から見ると、かなり奇妙にみえる造形物が現代にも溢れているんだと思います(笑)じゃあそれはいったい何なのか?考えて周囲を観察してみる事は面白い事です。
いるかいないかわらかないUFOとか宇宙人とかに理想を仮託するよりは、よっぽど掘りがいのあるもののように思います。

──UFOの場合も、それが現実に存在するかもしれないという側面に興味があるわけですね。

それも考証しようとするプロセスに興味があるんです。いるかいないかは、どっちでもいいような気がします。

──UFOが実在するかを考えることも、一見非常識なものが存在する可能性を考証していくことなわけですね。

ええ。

──先生は「シミュレーション」という表現を用いられます。これは、計算科学と呼ばれる現代の科学の在り方を思い起こさせます。古代ギリシャの科学は理屈で考えていくものでした。それに対して、近代の科学は数学を言語としつつ観察と実験に基づくものでしたが、基本的には過去に存在したものや現在存在するものを扱っていました。それに対して、現代の科学は、コンピュータのシミュレーションを用いることで、さまざまな可能性を計算によって明らかにすることができます。過去にありえたことも、現在起こりえたことも、未来に起こりうることも。私たちが実在すると考えているこの世界も、さまざまな可能性の内で実現された一つの可能性として考えられるようになるという議論もあります。

上杉景勝とマネ猿の話 2015年

結局、どういう手法を使ってもいいと思うんですが、自分を含む多くの人はその根底に今世の中で何が起こっているのか知りたいという願望があると思います。それは、過去で何が起こったのかに関しても、これから何が起こるのかに関しても同じです。
僕の場合はその中で少しのスパイスとか、ユーモアとか、遊びがあったりして、実験的に現実を活性化させる試みもありますが、気をつけないといけないのは活性化が目的となって、「毎日がお祭り状態」になると、かえってそれはリアリティの欠落した、空疎なだけものになってしまうと思います。繰り返して言うことですけれども、現実に起こった事、これから起こるであろう事を信用しないといけませんね。

僕は、現実は「火」のようなものだと思っていて、火って生活を豊かにしてくれますけど、いろんなものを燃やしちゃうという怖い側面もあるわけです。じゃあ火って邪悪なものか聖なるものかという議論をするのはナンセンスだと思うんですね。火が持っている特性やスペックを知るのは大事だと思うんですが。世の中っていうのはいい部分も悪い部分もあるわけですから、どちらかの側面だけを持ってきて、鬼の首を取ったようにいいとか悪いとか言うのは不毛だと思うんですね。ただ世の中でどんなことが起こっているのかをできるだけ正確に知りたいんです。知れば知るほど面白いのが世の中だと、僕は個人的に思います。
知ってしまうと失望してしまうんじゃないかというブレーキをかけてしまうことがありますが、現実を信用して踏み出すと、きっとK点越えの正解を見せてくれると信じています。

──神話や伝承の由来も、調べると失望してしまうのではないかと思ったりもしますが、調べた方が面白いということですね。

はい。また脱線をスミマセンが、例えば鎌倉時代に「人魚を釣り上げた」という記述が出てくるんです。「顔は人や猿 に似ていて、体は魚だった。それは、人のように泣いていた」と。それで処理に困って代官所に持って行ったら、そんな得体の知 れないもの持ってこられても困る、ということで突き返されて、何と村人みんなで食べてしまった(笑) という。単なる創作の伝説かもしれないですが、何とも言えない生々しさやリアリティの種を感じる話です。これを推論すると、たぶんアザラシかアシカだったんじゃないのか、と思うんですね。人や猿に似た顔。オウッという鳴き声。図鑑もネットも無い時代に、アザラシ(やアシカ)を見たことが無い人たちは、驚いたと思います。
それで、アザラシを食べた人の中に偶然長生きをした人が出たことによって、「むかし、人と魚の合いの子みたいな物を釣り上げた。その人魚の肉を食うと 不老不死になる」といった伝承が生まれたとすると、伝承と推論の多くが符合します。逸話は伝説となって長く中り継がれてゆくわけです。そういえば、東国の河童も「ヒョウヒョウ」と鳴くと言われています。水面から顔を出したアシカやアザラシも鳴きますね。川辺で複数の個体が遊ぶ例もあります。


野口氏のリアリズムを理解することは、彼の作品をよりよく味わうための手がかりとなるだけではなく、私たちが日常において考え、行動するときのヒントにもなる。固定観念に囚われ、生きたセンスを失ってはいないか。普段、何をリアルに感じているのか。繰り返す生活の中で、もっと世界を知りたいという気持ちになるのはどんなときだろうか。後編では、野口氏の生命観、自然観、人間観に迫る(12月6日公開)。


今回のインタビューでは、野口氏の制作の態度や思想にスポットライトを当てたため、彼の作品そのものをほとんど扱っていない。

野口氏の作品と向き合うことで、このインタビューの中で出てきたさまざまな問いを深めると共に、新しい問いを発見することができる。本インタビューに登場した作品の一部は作品集『侍達ノ居ル処』(青幻舎)に収録されている。

12月1日から12月16日までギャラリー玉英で、野口哲哉作品展「armored neighbor ~鎧を着た隣人~」が開催されている。

野口氏の作品について、twitterのハッシュタグ「#野口哲哉」を利用して、自分の意見を発信し、他の人と交流するのも刺激になるかもしれない。

野口氏に関する情報は、ギャラリー玉英の運営する野口哲哉公式FacebookおよびギャラリーのWebページtwitterから得ることができる。


野口哲哉
1980年、香川県高松市生まれ。広島市立大学芸術学部油絵科卒、同大学大学院修了。主に侍や甲冑といったモチーフを扱いながら、人間のリアリティや文明の奥行を探求する作品制作を展開。