Dialog

好きならなんでもよくない?それでも“安全な食”が必要な理由

「食から社会を変えたい」
そんな強い想いから、カルフォエルニア・ベイエリアのコミュニティ・ファームAlemeny Farmの運営に携わる佳奈(カナ)・ロマン=アルカラさん。前編ではその活動内容や意義を紹介。インタビューを通じて、食と社会、そして政治の関係が浮き彫りになった。後編は、“安全な食”についてさらに深く問い、語り合う。

食の問題と一言にいっても、どんな問題があるだろうか?人間の幸せとは?環境問題とは?今後の地球のあるべき姿は?さまざまな観点が盛り込まれた対話をお届けする。(前編を読まずに理解できる内容ですが、プロフィール等は前編参照。)

▶︎前編:“食”を考えることは社会を考えること。サンフランシスコALEMANY FARMの挑戦

左から佳奈・ロマン=アルカラさん、順子さん(前編インタビューア) / nebulaの伶奈は日本からテレビ電話で参加

なぜ安全な食べ物を選ぶべきなのか?

伶奈(nebula)まず、佳奈さんが安全な食べ物を選択する理由は?

佳奈(敬称略)三点あって。一つ目は、身体レベルのもの。元々アレルギー体質で、身体がセンサーになって悪い食べ物を受け付けない。でもこれは個人的な体質だけの問題ではないと思う。食べているものは、身体に直に反応が出るものだから。私は自分の身体に合う食べ物を探し求めていった結果、安全な食べ物に行き着いたから、オーガニックが「意識が高い人のファッション」みたいな意識はないな。

二点目は、自分の手で気持ちを込めて作ったものを食べる喜び。生きてる感があるし、身体だけじゃなくて精神的にも満たされる。

三点目は、食べ物の社会・環境的な影響力を知ってしまって、やっぱり社会的に間違ってると思うから。大学院時代にフィールドワークをする中で、大企業に農地が奪われて生活の手段を失った農民の人たちにたくさん出会った。ブラジルやタンザニアや、モザンビークの農地に行って現地で調査し、彼らと交流すると、罪悪感を持ってしまって。大量生産の食べ物なんて食べられなくなった。いろいろな選択肢があるなら、社会にとって良いことや、自分や周りが居心地いいことをしたいなと思う。

伶奈 なるほど。でも、安全な食が大切だと理解できても、近所にコミュニティファームなんてないし、オーガニックランチは1000円以上。隣を見れば、マクドナルドは200円。マクドナルドが資本主義社会の代表で、オーガニックカフェが地球に優しい農家を救っているはずなのに、実際は低所得者層ほど資本主義の奴隷になってる状況。この矛盾についてどう考えている?

佳奈 難しい問題だね、うまく答えられるかなあ。その問題は結局システムが変わらないと解決しないというところに落ち着くと思う。根本的には「お金を中心にしたシステム」から、「命を中心に置くシステム」に移行しないと解決しない。変化を起こすのは権力やお金を持っている人でなくてもいいのだと思う。オーガニック運動も農民から始まったし。もちろんそれは、富裕層の支援があったから広まったのは事実だけど。

伶奈 システムを変えられるのは誰なんだろう?

佳奈 もちろん政府や力のある組織が動くことも必要だけど、これからの時代は、市民の力が大事になってくると思うんだ。歴史のせいもあるけど、海外に比べて日本は社会運動や活動家への目が冷たい気がする。そういう見方は変えていってもいいんじゃない?いまは「個人」の時代。今後はメディアのような大きなものに流されずに自立して、正しいことを見極めて行動する人が社会を変えていくと思う。

伶奈 となると、個人の意識を地道に変えていくことが大事?

佳奈 綺麗事じゃないから、うまくいかないこともある。だから、無理しない範囲でだけどね。

食は「正しさ」の問題か?

伶奈 佳奈さんが指摘する食システムの問題を考えると、安全な食を選ぶことは道徳的に正しいことのように思う。これが社会的な道徳の問題だけだったら、正しいもの(例えばオーガニック)とそうではないもの(例えば大量生産の食べ物)という基準を設けてはっきり語れるかもしれない。けれど、食はそれぞれの味覚の問題でもある。個々人の「趣味」でもあるから、正しさだけを問題にできないと思う。

佳奈 なるほど。

伶奈 例えば「自分でつくった野菜のほうが美味しいよ」は、特定の人には効くかもしれないけど、「もぎたてのオーガニックトマトよりもマックのほうが美味しいぜ」って言う人に「それ間違ってますよ」とか「正しくない」という批判はできない。「健康であれ」は道徳的な命令にはならない。「糖尿病で死んでもマックシェイク飲みたい人」もいるし。それぞれの「趣味」だから「好きにさせろよ」って思うでしょう。私はジャンクフード大好きだし吉野家も行くしラーメン三食どんと来いタイプだからすごいわかる。

佳奈 それはわかるな。食を道徳の問題とだけ捉えて「正しさ」を押し付けてくるタイプは周りにもいて。すごい苦手。

順子(敬称略)いるいる。「身体にも社会にも悪いから白砂糖は絶対ダメー!」みたいな。

佳奈 この活動をして思うのは、例えば農薬を使う農家が絶対悪いというわけではないから、どこをどのように批判すべきかわからないということ。ものすごく難しい。強制的に農薬や機械を支給されて農業のやり方を変えた人もいるし、一概に誰かが悪いわけじゃないから。アメリカは善悪の二元論が強くて、簡単に二項対立に陥ってしまう。ドキュメンタリー映画でも、“「われわれ正義」が「わるい企業」を暴くストーリー” が、ものすごく多い。その観点だと行き詰まるんじゃないかな。物事は繋がってるから、分断的な視点では解決できない問題が多いと思うんだ。

順子 アメリカってそういうところあるよね。

伶奈 どっちかが必ず正義ってわけでもないもんね。けど、どっちが正しいか、なかなかわからなくても、やっぱり食は道徳の問題でもある。搾取する側とされる側が必ず出てくるし、大企業や国が食システムを管理しているとなると、個人の「趣味」の話だけでは収まりきらない。そもそも社会が個人の趣味や欲望を形成しているわけだし。

佳奈 そこが難しい。でも食システムの変革を目指すわたしでさえも、各自好きにすればいいとも思う。マクドナルドは身体にも社会にも悪いけど週に一個食べないと幸せになれないみたいな人は現にいるわけだし、それでも全然いい。

伶奈 それはなんで?

佳奈 人の考えを無理やり変えるのはよくないと思うから。こちら側ができることは、より広い選択肢とその背景にある情報を提供すること。その上で本人が自由に選択しないと意味がないし、歪みが出てきちゃう。

順子 自分の意志じゃないと歪みが出てくるということはすごく実感していて。わたしの元彼は、ファストフードや炭酸飲料が大好きで、肉と米とじゃがいもしか食べないアメリカ人。健康面を注意したり、一緒に食のドキュメンタリーを見たり、やばいものを食べ続けることで起こる社会問題や農薬の問題を共有したり、個人的に支持したくない企業を教えても、彼はそんなに興味を示さないし「そうなんだ、でも俺好きだから」という感じだった。

伶奈 なるほど。彼の気持ちもわかる。好きなもの食べたいし。

順子 そう。わたしがダメダメ言い続けていると、彼は不幸せで不自由になっちゃう。「じゃあなにを食べればいいの?」って。結局、相手の選ぶ自由を奪うことになる。

伶奈 食は人間関係の中心にあるから、食卓を一緒に囲むことには大きな意味がある。食の趣味が合うことで仲良くなることもある。けど、だからこそ、人間関係が壊れる理由にもなるよね。

佳奈 たしかに、金銭的にファストフードしか食べられない人もいるし、まわり全員がマクドナルドを食べているのに私は食べません、みたいなことは簡単にできない。

伶奈 そうそう。忘年会でヤバいお店を予約する人いるじゃない?全品300円って大丈夫かよ、みたいな。じゃあそこで「そういうお店はよくないからわたしは行きません」と主張し続けると、おそらく友達がいなくなる。食とコミュニティは切り離せないから、ある程度寛容にならないといけないし、押し付けないことは非常に大事だと思う。

強制や怒りではなく「呼びかけ」を

伶奈 でもさっきも言ったけど、食の問題は社会的な問題でもある。社会変革をしようとするときには、多くの人を巻き込まないといけない。「個人の勝手でしょ」からは生まれない。寛容になることは大事だけど「一人でやる」わけにはいかない。

順子 その実感もあって。わたしが、そのとき目の前にいた元彼に対して諦めちゃったら、自分が変えたいと思っている社会を諦めることになるなって思う。やっぱり自分が実現したい社会像があるから、そのためによりよいアプローチで仲間を増やすしかない。

伶奈 大切なのは、人にどう伝えるかというアプローチの仕方なのかな?強制や命令、やり過ぎは相手の自由を奪うからよくない。でも、賛同してくれる人数を増やさないと社会なんて変えられないから、主張をしないわけにもいけない。

順子 たしかに。些細なことに見えるけど、一番大事な問題だと思う。

伶奈 だから、「呼びかけ」っていいなと思うんだ。「みんなもやろうよー。どうかな?」という「提案」や「アドバイス」として人に訴える。というか、これしかできないと思う。

佳奈 「呼びかけ」すごくいいね。アプローチの方法ってすごく大事だから工夫が必要。「批判的なアプローチ」や「罪悪感を起こすアプローチ」というネガティブな方法には限界があると思って。「あなたは間違ってる」と指摘したり、「これをやると貧困が広がる」「アマゾンの森林が伐採されてこんな被害がでて」というような、人の良心に訴えるのみの方法では、大勢の人の日常的な行為を方向転換させるには力不足だと思う。

伶奈 どんなアプローチなら人を巻き込める?

佳奈 「美味しいからこっちにしよう」「楽しいからこっちにしよう」というポジティブなエネルギーは長続きすると思う。そして、自分が絶対正しいわけじゃないから、常に自分自身に問いかけつつって感じかな。

順子  ハッピーな雰囲気が社会を変えると思う。怒ったり批判したら相手は構えちゃうだけ。

佳奈 わかる。賛成するのと違って、反対運動ってすごい疲弊しちゃう。みんな怒っているから。

伶奈 強い口調で演説したり批判するのが政治的行為だと思われがちだけど、そうではない?

佳奈 自分で理想としている社会を自ら実践することがまさに「政治的行為」だと思う。楽しいことやみんなが参加したくなるようなことを理想としているのに、それを主張する当人が怒ってたら、人は離れてしまう。

伶奈 なるほど、それはよく言われるね。社会改革を目指す団体が掲げる理想的な社会が、運動の最中に、その運動体の中で先取りされていないといけないって。

佳奈 そう、だから「違う価値観の人をやっつける」のではなくて、自分が心からいいと思えることを実践して、仲間を増やして輪を広げることが必要。で、仲間がある程度増えてくれば、常識が入れ替わる瞬間が絶対に来る。

伶奈 たしかに、歴史的にも常識は常に入れ替わってきたし。でも、みんな食システムとかどうでもいいって思ってるんじゃない?「どうでもええよ」って人に対して、変えたい側がどこまでアプローチできるのか、とても難しいね。

価値観の相違、どうする?

伶奈 話が少し変わるけど、何かに対する「飽くなき欲望」って人間の本質でもあると思う。そのためなら、地球や動物を犠牲することを厭わないこともある。ファッションや食、一部の芸術創作なんかまさにそんな人間性の一面であって。念頭にあるのは、例えばフォアグラとか毛皮のコートとか。これがおそらく人間が長い歴史の中で作り上げた「文化」と呼ばれるもので、個人の趣味や社会的な道徳という観点で語れない部分なのかなと思う。言い換えれば、人間の欲望と創造性の問題かな。

佳奈 食ってステータス的なものでもあるしね。

伶奈 そう、食は文化の層や階級をつくるものでもある。佳奈さんは、例えばこういう伝統や文化を捨てるべきで、新しい常識を作るほうがよいと考えている?

佳奈 うーん。けど、その欲望の問題って結局価値観の問題で。どっちが「正しい」ということはない。相反する欲望がぶつかっていて共存が難しい場合が多くある。欲望は理論で説明できないものだし、歪んだものもある。

順子 鶏は食べるけど、犬を食べるのは残虐だという価値観がある。動物の権利を主張する人から見たら、鳥も犬も守るべき対象だけど、日本の常識からすると、鶏は食べ物で犬はペット。文化とはそういうもの。

伶奈 たしかに、文化は相対的なものだね。さっき人間の文化だ歴史だ、みたいな言い方したけど、少し訂正しなきゃ。ある土地の常識の中で、独自の文化が形成されていく。それぞれの土地でそれぞれの人間がよくわからない欲望から他の文化圏には理解されない(かもしれない)文化を生み出している。で、それをグローバル視点で「違くない?」って水を差すのはどうなのという懸念と、あとそういう批判に萎縮して人が創造性を欠いて不自由になってしまうのが怖いなと思った。

佳奈 だからわたしは、その都度対話を重ねていくしかないと思う。

順子 例えばわたしはフォアグラは支持しないけど、自分の人生に関わらないことに対して、熱意を持ってよいとか悪いとか言えるほど力はない。自分がエネルギーを費やせるものは、毎日見るもの触れるもの。その中で自分が納得いくオプションがない場合には主張してもいい、までしか言えない。全部変えることはできないから。

「誰しもが幸せになりたい」

伶奈 さっき佳奈さんが、絶対的な正しさはないって言っていて。文化は相対的なものとはいえ、でもやっぱり、他者と共存している限りなんらかの共通の基準は持たないといけないと思う。それぞれの文化の問題だけだったら、活動を広げたいなんて思わない気がして。だから佳奈さんには、別の社会的な基準があるのかなと思うんだけどどう?

佳奈 どんなに立場や環境が違っても、「みんな幸せになりたい」っていう目標は共有できるんじゃないかな。

順子 わたしも同じかな。絶対正しいことはないかもしれないけど、みんなが幸せに生きることが理想。それは一緒だと思う。

伶奈 うーん。その「幸せ」は環境や他の人も含めたトータルの幸せってこと?「わたしの幸せ以外なぜ考えないといけないの?」と思う人はたくさんいると思う。そこまで言わなくても、「幸せ」の内実は個人的なものだからそもそも他の人とわかり合えるのかな?

佳奈 それは幸せの定義が狭い気がして。個人だけに焦点を当てた「幸せ」は長続きしないと思うの。私たちは互いに依存し合って生きているから。自分だけの幸せが結果的に誰かを苦しめるかもしれない場合についても、常に想像力を働かせたい。

伶奈 つまり、他の人の幸せについて考えないと自分も結局幸せになれないということかな。

佳奈 それもそうだし「どうしたら幸せになれるか?」「どうやって人間が幸福に生きることができるか?」は共有できる問いだと思う。だから、これを巡る対話が大事。「価値観や趣味が違うから話が通じませんね、終わり」ではなくて、その先に進むための対話のプラットフォームが大事だと思う。

伶奈 なぜ対話のプラットフォームが大事なの?

佳奈 対話することで、お互い理解できるかもしれないし、相手や自分の考えが変わるかもしれない。合意に至らないこともあって決別するかもしれない。でも、対話をしたかしないかで大きく違うはず。

伶奈 対話によって互いの納得できる基準が生み出されるということかな。

できるだけ命を妨げないという生き方を

佳奈 地道に対話を重ねていくことをもっと重視してもいいと思う。もう1つ、私にとっての幸せは、自然界にあるgive&giveの互恵関係。その中で、それぞれの生命がその命を最大限に生きることが大事。私たちはみんな関係性の中で満たされることを望んでいると思うから。だから、他の命を傷つける文化や伝統は積極的に変えていってもいいと思うな。

伶奈 幸福の内実の話だね。

佳奈 そう。だから幸福は「できるだけ命を虐げない」ということ。自然界の生き物は、みんな殺し合って生かし合ってるから、命がある限りある程度の猥雑さやドロドロ感は存在してる。自然は残酷なものだから。けどそんな中でも、著しく他の命を歪め、傷つける行為はよくないと思う。ジョアンナ・メイシーという仏教哲学者・平和活動家がいて、彼女が「あらゆる選択の場面において命を生かす方法の選択肢を」って言っていて。それが冒されている場合、わたしは声をあげたいと思う。

順子 植物に感情があるという理論を提唱している人もいる。だから、樹木から落ちたものしか食べないとか。あれについてはどう思う?

佳奈 「植物に感情があるからすごい、だから食べてはいけない」という論理ってすごい人間中心主義的だと思う。「人間と似てるからすごい」という考えが根本にはある。

伶奈 西洋ではずっとそういう考えが支配的だったよね。

佳奈 『生物から見た世界』という本があって、すごい好きなの。蝿や猫がどのようにに世界を知覚しているかが書かれてて。人間ができないことを動物ができたり。これを読んで、それまでの哲学がいかに人間中心だったか実感して、知性の基準や生きる基準を人間だけに置くべきではないと思った。人間との比較からではない語り方があるはず。人間や地球の歴史が、脱人間中心主義化すればいいなと。

伶奈 でも、人間が人間である限り、自分を置いて何かを語ることはできなくない?

順子 これまでは、人間がどれだけ環境を支配、搾取できるかが歴史の中心にあったけど、これからは、人間が存在し活動することでこの地球全体がより豊かになる方法を模索する方向に変わっているという。むしろ人間の知性が素晴らしいからこそ、自分と地球を豊かにするという方向がいいなと思う。

伶奈 それはさっきの佳奈さんの脱人間中心主義と矛盾しないね。観点をどこに置くかという話で、それが人間のみなのか、人間を含めた地球全体なのか。

これからの環境について考えよう

順子 環境運動って、これまでの豊かさを手放すイメージがあった。自給自足しなきゃとか不便になるとか。でも、いままでのやり方を放棄して後退するのは違うと思う。そういう方向ではなく、テクノロジー開発を含めて前進していきながら、同時に地球も豊かにする方法もあるはず。

佳奈 エコロジー思想って過激になると「人間がいなくなればいい」という観点に行き着くことがある。そうではなくて、地球に対して果たしている人間の役割もある。人間にはバランスを調停する役割がある。人間の手を加えることで森林が豊かになったり生命が保たれることが、往々にしてある。みんなが山に籠もればいいわけでもないし、科学が衰退すればいいって話でもない。

伶奈 テクノロジーや科学という話が出たけど、共存するためにはどうすればいいのだろう?いまの環境問題は、科学の力で解決可能なこともある。食料がなくなるとしても、土がなくても育つ野菜や、人工肉(※)も開発されている。むしろこれ以上地球を汚さなくて済むかもしれない。科学技術が人間の食を支配すれば、人間の生存確率はあがるかもしれないし。
(※人工肉の記事:人間はもはや動物ではなくなる。クリーンな肉がもたらすものとは?

佳奈 植物や動物が消滅すると人間が死んでしまう、というのはよく言われること。例えば昔、とある農薬会社の農薬のせいで世界中で大量の蜂が死んでしまったの。それに対して、“If we die, we’re taking you with us”と書かれたポスターが出たんだけど、まさにそれを表してたと思う。

伶奈 生態系を守らないと人間も生き残れないってことか。

佳奈 人間だけが生き残る道をとることは無理だし、科学には限界がある。でも、科学の偉大さも無視できないよね。わたしはアグロエコロジーという分野を研究している。最新の科学知識と伝統的な知識を組み合わせた研究なんだけど、科学の捉え方が今までとは全く違ってくる。今までの農学は、いかに人間が自然を支配するか?不要なものを排除して必要なものを生かすか?という方針だった。つまり「自然vs自然の外にいる人間」という考えが中心。でも、生態学に基づくアグロエコロジーはその枠組みを変えて、「自然の中に人間が含まれている」という前提から出発する。だから人間が自然の中で、自然とどのように共生し、生かしあっていくかという方向なんだ。

伶奈 自然と共生するという方向はすごくわかるのだけど、例えば200年後に環境がひどいことになっても、私たちを含め、いま生きている人には直接影響しない。いま地球に存在する他者の幸せを考えるべきだ、という考えはわかるけど、今後の地球や人類についてどこまで考えればいいのかなあ。どう思う?

順子 自分たちが搾取し続けると次世代が困るという考えはよく聞くよね。それに対してわたしは、次世代はその時代に順応していくんじゃないかと思ってた。でも、前の世代の人たちがそれなりに守ってきてくれたから、わたしたちはいま自然とかをある程度享受できている。アメリカの国立公園のあり方もそうだし。だから、わたしたちが次世代にそれを受け継ぐ必要はあると思う。

佳奈 そうだね。そして、他の命への畏敬の念を忘れない考え方が本当に持続可能なシステムを作ると思う。だからこそわたしは「教育」が大事だとおもう。子供たちはいろいろな可能性を秘めているから。命や自然について学べるカリキュラムをもっと教育に盛り込めばいいなとも思う。「幸せをどう考えるか?」というテーマも考え続ける必要があるよね。

考えるべきことはやみませんが、今回の対話はこの辺で。佳奈さん、順子さん、本当にありがとうございました。

対話した日 2017年1月24日

▶︎前編:“食”を考えることは社会を考えること。サンフランシスコALEMANY FARMの挑戦
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