Dialog

創造性は何に由来するのか? ロックンローラーとの対話 前編

さまざまな場面で創造性が求められる。仕事で企画を発案する時にも、ウィットの利いた会話をする時にも。そして、創造性が最高度に要求されるのが、音楽や文芸などを創作するという芸術の場面だ。

人間の創造性は何に由来し、そして、それを発現させるために何が必要なのだろうか。

このような問いに答えを出すため、ミュージシャンの汐崎鸞煌(しおざきらんこう)氏と対話を行なった。汐崎氏は、HOMO DEMENSというアングラバンドで蠢いているという。

Photo by Jörg Schreier 

エスカレーターを逆走せよ

汐崎 新たなものを作るっていうのは、上がっていくエスカレーターを逆に駆け下りるっていう感じだと思うんですよね。一度、作り方が出来上がると、その流れの延長から出られなくなってしまいます。

岡田 なるほど。作り方が出来上がった上では、その型の延長で作っていくことへの傾性が働くわけですよね。そのままやって行けば、効率よく、安定して生産できる。ただし、前のものの反復にすぎませんね。

汐崎 工業技術みたいなものなら、エスカレーターに乗って上がっていくのでいいのかもしれません。
例えばホチキスは、もうほとんどモデルチェンジしないわけですね。ですが、音楽の場合、同じ型を繰り返したくないんです。僕は一曲につき、一つの型があるべきだと思っています。
生物の場合、外から環境の変化によって、今の生存の型が機能しないものにならないと、今の生存の型をキャンセルするということは起こりません。だから、個体差があまりありません。

岡田 生物は、エスカレーターを逆走できないというわけですね。適応は、同じ型の中での話にすぎないでしょう。例えば、セイヨウタンポポは、セイヨウタンポポの種的な型の上でしか咲くことができないというような。

汐崎 ええ。それに対して人間には、これまでの型を変えるためのキャンセルの方向を自発的に生み出す力がある。そのためには、これまでのルールを破らないといけません。

岡田 音楽のような創作物の場合、新しい試みをしないで、これまでの誰かの作った型や、以前にその人が作った型を焼き直していると、つまらないですよね。技巧は洗練されているけれど、勢いや鋭さがない。

汐崎 ジョン・レノンが面白いなと思うのは、彼が鋭さを保っているからなんです。型を見つけて環境に適応してしまうことに甘んじるんじゃなくて、自らを戦いの中に入れる。つまらなくなるのは、同一線上での成長に安らいでしまうことによりますね。戦いをやめてしまっているから、不戦敗です。

完成すると堕落する

岡田 そうなると、上りエスカレーターを降りるタイミングが問題になりますね。
新しい型を仕上げていくっていうのも大事な仕事なわけで、中途半端にやめてしまうのも問題ですよね。

汐崎 まだ出来上がっていないうちに止めるのは逃げですよね。やっぱり型が出来上がってからですね。それで一つの完成に達するわけです。

ですが、それなりのものを作りたいか、新しいものを作りたいかで違うと思います。それなりのものを作るというだけでは、エスカレーターの上昇に流されてしまう。

岡田 創作には、新しさへの求めと、完成への求めという、ある段階までは重なりつつ、ある段階からは相反する二つの方向がありますね。

汐崎 ええ。新しいものを作ろうという求めがあると、ある段階で行き詰まりが生じてくると思うんですよね。エスカレーターの上昇は、新しいものを作るプロセスだったんですけど、ある地点を越えると、それがむしろ既に作られたものに囚われていくというプロセスに変わってしまいます。

作るという運動は、作られたものに囚われるということに必然的に変異することになります。

岡田 行き詰まりっていうのはスランプといわれるものですか。

汐崎 ええ。新しいものを作り出そうとしているのに、どうすればいいかわからない時に行き詰まりに陥ります。停滞ですね。河が岩とかの障害物で堰きとめられているときに、流れ込んできた水は岩にぶつかって、渦を巻くという感じですね。創造へのエネルギーが、形成に至ることができずに、力動的に滞留してしまう。進めないけど進もうとする。

行き詰まりは、苦しいものですが、これが大切だと思います。この行き詰まりの中での粘り強さが、新しいものを生み出すことになるのですから。

岡田 それは上がりエスカレーターを駆け下りる方向ですか?

汐崎 ええ。そこでは、力みが生じています。エスカレーターを下っても新しいものがあるわけではありません。エスカレーターの下の方向にあるのは、これまで自分が上ってきたところなのですから。

それは、自分の歩んできたもの、つまり既知のものにすぎません。ですが、それは完成のプロセスとして上昇していくときに見えた風景とは違っています。

これまでのかたちを乗り越えるために、これまでの自分のあり方と向き合うという感じですね。距離を取るために、過去の自分に遡っている。

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Photo by Allegra Ricci

岡田 あるいは、行き詰まっているときには、これまでの延長線上で動くことを拒否しないといけないけれども、新しい型が分かっているわけではないから、むしろ過去に向かい、自分のルーツや自分の状態を対象化して距離を取るしかないということかもしれませんね。

人間の創造性は錯乱に由来する

汐崎 一つの型が見定められて、その型を充実化、洗練化させるエスカレーターの上昇は、植物が成長し、花を付け、実を付けるような自然な流れだと思うんですよ。

岡田 成長の流れ自身が、遺伝情報という設計図として種子の中に胚胎されているという感じですよね。

汐崎 新しい曲の型を作るっていうのは、新しい植物の種を作るという感じですね。インスピレーションとしての種から、芽が生えて、花が咲き、実を付ける。

最初に新しい曲、つまり新しい型を作るプロセスは、世界で初めての発芽と開花ですから、創造だと思います。

ですが一度できた作法や型で、別の曲を作るということをしてしまうと、焼き直しです。創作という立場から見れば、何世代も同じ形を繰り返す存在である植物はずっと焼き直しをしているということになります。

岡田 型の実現のプロセスは、自然的ですね。自然的なものは、意識的な意志によるキャンセルや試行錯誤なしに、単線的に実現されていくわけですね。そこには迷いがない。

汐崎 そうですね。出来上がった型を推し進めるのは、しかるべくして、そうなっていくことです。それが自然の流れですね。そこには力みがない。自然の流れと自分の動きは一体化して、一つの自然の流れをなしている。音楽を作るとき、一度構想ができると、一気に出来上がることもあります。

岡田 それに対して、キャンセルをする運動には無数の可能性、無数の選択肢が存在している。そこには迷いがあるわけですね。

汐崎 行き詰まっていて迷う時、力んでいます。その力みの中では、自分はこんなもんじゃないという現状を否定する意欲があります。

エミール・シオランというルーマニア人の思想家がいるんですが、『生誕の災厄』という本で、「無意識は人間の祖国であり、意識は流刑である」と書いています。

人間は自然の流れの中に生まれてきますが、意識をもつことで、流れをキャンセルして、無数の方向のなかから、自分の行く道を自分で決めることができるようになる。その時人間は、自然の流れから分離されます。

力みというのは、意識を介して自由選択的な意志となった生物的な生存本能が、行動の向かう方向を定められない時に生じる欲求エネルギーの過剰な集中であるということもできるでしょう。

岡田 なるほど。人間には、いろいろな定義がありますね。よく知られているのは、理性を有するという特徴に注目したホモ・サピエンス(知性的な人)や、発達した手を用いて道具を製作するという特徴に注目したホモ・ファベール(工作する人)であり、このことは表裏をなしています。

しかし、このような道具を作る理性的な動物であるということは、自然的な本能から外れた存在であるということを意味しています。そのために、人間はホモ・デメンス(錯乱する人)とも特徴付けられるわけですね。

汐崎 ええ。ホモ・デメンスとしてのわれわれは、生存の無軌道性、無目的性、無意味性に面しています。
しかし、一つの型ができると、それは第二の自然となり、一つの自然な流れとなります。その意味で、錯乱した人間が生み出した人工的な型が新しい自然的な流れとなります。それが、型とか、習慣とか、慣習とか、作法とかいうものですね。

我を否定するのがロックンロール

汐崎 エスカレーターの自然な流れが打ち破られるときに停滞が生じます。その停滞の中で力むっていうのが大事で、正念場だと思います。ここでは自然な流れで単線的に行くのではなく、複数の可能性を試す必要があります。

重要なことは、ここで力んで新しいものを作るといっても、二つのやり方があるということです。

岡田 どんなものですか。

汐崎 基本的に力むというのは、自分に執着するという方向を含んでいます。自然の流れに逆らって自己を主張する、自分でいろいろなものを考え出し、コントロールしようとするということです。それは流れを変える自分の努力ということですね。

ただ力んでいるだけという場合、無理しているということになると思います。僕は、無理して新たなものを作ることを捏造と呼んでいます。それは、作れないのに、意志的な努力によって作り出そうとするということです。

岡田 強引な曲とか、勢いだけで持っていく曲とかありますよね。

汐崎 ええ。こういう意志的な努力だけで無理することが新たなものを生み出さないとは思いません。

ですが、僕が重視しているのは、力むことを徹底することを通して、無理しない在り方に移ることで新たなものを生み出すということです。これを創造と呼んでいます。

創造は、単に自分がすべてを支配しようとすることだけから出てくるのではなく、環境とか伝統とかからの働きかけとの関係の中で、新しい型ができることだと思います。

エスカレーターのメタファー(隠喩)で言えば、型ができると、別のエスカレーターに飛び移ることになります。新しい道が現れるということです。

人間というのは、呼吸が空気が有機体の内部と外部を循環する運動であるように、一つの循環メカニズムの機能だと思います。作曲の場合、制作者は一つの作品を形成する循環メカニズムの中の一つの機能です。

この循環メカニズムには、環境から個体への働きかけと、個体から環境への働きかけがあります。環境には自然も他人も人工物もすべて含まれます。それは、私たちを取り巻いている現実のことです。

岡田 環境からの働きかけというのは、例えばどういうことですか。

汐崎 そうですね。イヤホンを例に取りましょう。街中でイヤホン付けるのって、もったいないと思うんですよね。街には、いろいろな音があるじゃないですか。音があるのに、別の音でそれを消してしまうのかという。

現実には、イヤホンで流した音楽からの影響を受けているわけですから、周囲の環境からの影響があるわけですけど、自分で決めた音楽しか受け入れないという点では、環境からの影響を限りなく自分で管理しようとしているわけです。

それと違って、イヤホンを外すと、外的なものを受け入れることになります。もちろん外の音というのは、自然の音と人々の出す音(人の声や流れている音楽)が作り出す一つの全体的な音響です。

岡田 なるほど。環境に働きかけるという限り、逆に環境から働きかけられるということはあるわけですが、ただ力んでいるだけの人、意志で世界を支配しようとしているだけの人は、単に能動的であろうとするわけですね。そのような極度な能動性に傾いた創作によって、作られるものを捏造と言うと。

それに対して、創造の方は、自分の意図や意志が環境の側から変えられることを受け入れつつ、双方的な循環の中で新しいものが出来てくるということですね。

汐崎 はい。僕は、ロックとロックンロールを区別しているんですよね。これは、一般的な言葉遣いではなく、僕の言葉遣いなのですが。

ロックというのは、無理して力んでいるだけで、マッチョ的な姿勢のことです。ほとんど何もできないけど、とにかくやろうとしているみたいな。我が儘(わがまま)の追求ですね。捏造ですね。

「ロックじゃねえ」という言説があります。こういう場合のロックは我を押し出せという規範性でしょう。この意味でのロックには、なんというか、自分自身に対して真面目で、後生大事に、魂の純粋さを保持しようとするという感じがします。自らの内面的なものが汚れないようにしている。

岡田 ロックンロールの方はどうですか?

汐崎 ロックンロールは我の否定による創造だと思います。我を超越することです。汚れることを恐れないというか、汚れていると汚れていないを超越するという感じですね。

岡田 仏教でいう「不染」(汚れないこと)みたいな感じですね。蓮華は泥沼から咲くけれども清浄である。そこからさらに進めて、汚れるのを恐れて清らかさを保とうとするのでもなく、汚れに甘んじるのでもない、汚れることにも汚れないことにも囚われない境地を、絶対的な意味で「不染」というようです。

perfection by Jasleen Kaur

Photo by Jasleen Kaur

汐崎 そんな感じとも言えますね。座禅とか組むわけじゃないですが。力みに徹しつつ、それを自ら(みずから)から自ずから(おのずから)に変えるみたいなことをやろうとしている感じはありますね。

岡田 ロックンロールを作っていると思う人はいますか?
またどんな曲がロックンロールでしょうか?

汐崎 あんまり人の音楽聴かないんですけど、ジョン・レノンの‘Watching The Wheels’とかいいですね。

一方、ジョン・レノンでも、社会的、政治的な活動に携わってた時は、あまりロックンロールではないと思うんですよね。遊びがあまりありません。政治という観点ではよいことかもしれませんが。

今回の対話から出てきた問い

今回の対話の中で、新しい作品を作るために、これまでとは違うものを作り出そうと力む必要があるが、しかもただ自分の力で力んで環境に働きかけるだけではなく、環境からの働きかけに応えることが重要であることがわかってきた。

しかし、新たなものを生み出そうと試行錯誤して力むことをしない自然体のアーティストもいるのではないか。

後編では、この問いから出発して、創造の極意をさらに掘り下げていく。