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先生!先生に道徳を教える資格あるんですか? 女子高生と倫理教師の対話

先生という偉い立場の人が生徒に「道徳」を「教える」ってなんだろう。先生も同じ人間なのになんで道徳について多数の生徒相手に語れるの?そんな資格あるの?という問いをめぐって、現役高校生と倫理の教鞭をとる高校教師と対話をしました。

その模様をお届けします。

伶奈 最近、「道徳」が教科化され評価の対象になるという話を聞きました。小学校では2018年度、中学校では2019年度からだそうです。これを受け道徳教育についてあれこれ考えるべきことがあると思い、凪紗(なぎさ)ちゃんと古賀さんをお呼びしました。凪紗ちゃんは都内私立高校に通う三年生、古賀さんは高校で倫理を教える教師です。本日はどうぞよろしくお願います。

左から伶奈(nebula)、凪紗ちゃん、古賀さん

骨折したのに組体操に参加する生徒の美談

凪紗(敬称略)小学校で道徳ってありましたよね。

古賀(敬称略)道徳の教科書もありましたね。「手品師」とかが有名かな。骨折したのに組体操やるやつとかも話題になりました。

凪紗 当時教科書に載っていたのですが、虫歯になった子供が嘘をついて嫌な歯医者に行かなかったら、結果的に虫歯を悪化させてしまった、だから「嘘はつかないほうがいい」みたいな話です。でも、優しい嘘のようにいい嘘もあるはずだし、違和感を感じます。

伶奈 小学生の時に違和感を感じましたか?

凪紗 いや、今だから言えることです。わたしは絵本や教科書を読んで「正直だったらいいんだ」って思って中学くらいまでずっと正直でいたんですね。

古賀 へぇ、すごいなぁ。

凪紗 そしたら、親に怒られたんです。「空気読め」って。で、「えええ、どっちなの?」ってなるわけですよ。教科書は正直を肯定してたし親も正直でいろって言うからずっと正直でいたのに、なんで怒られなきゃいけないのって思いました。

古賀 僕は「正直はいいことだ」って習ったら、逆に「僕は正直じゃないからダメなんだ」って凹んじゃうなぁ。

凪紗 大人になるにつれ、空気読まなきゃと思って努力しました。いい嘘もダメな嘘もあるけど、全部状況で決まってしまって正解がない。グレーゾーンがあるものはすごく難しいです。とにかく、教科書がなんでも正しいわけではないと今は思ってます。

伶奈 古賀さん、どうですか?

古賀 場面によっては嘘をついたほうがいいという意見は、とてもよくわかります。誰かに連れてきてもらったレストランだったら、実際まずくても「おいしいね」って言う。これは生きる上でよくやることです。でも、恐らく凪紗ちゃんはそうしなかったから親に怒られたんですよね。

凪紗 はい。普通に「まずい」って言ってました。「あっちの店のほうが美味しくない?」って。だから親に「こら!」って言われました(笑)。

伶奈 「空気を読むべき」というモラルと「正直でいるべき」というモラルが衝突しているんですかね。どちらも先生や親に上から言われる。きっと教科書には「まもるくんが空気をよんだからみんながしあわせになりました」という描写もありますよ。

伶奈 数学や歴史は知識を得て学ぶものだけど、道徳は知識じゃないから即座に正解に辿り着けない。でも「正直はいいことだ」はある種の知識になっています。本来知識でないものを知識のように教えることに道徳教育の問題があるんですかね。

古賀 教えるとしたら、「嘘ついちゃだめ」ではなく「嘘をついていい時とダメな時を自分で考えられる人間になりましょう」とか?考えた結果、ずっと正直でいる人がいていいわけで。どちらかに断定すると、そういう人を否定しちゃうことになる。空気読めないからこそ、こいついい奴だなぁみたいな友だちも実際いるし。うん、そう考えるとなにも教えないほうがいいのかもしれない。

伶奈 なにも教えないほうがいい?

古賀 いやぁ、わかりません。

伶奈 わたしも何がいいのかわかりません。今日対話しながらゆっくり考えることができたらいいですね。

道徳と倫理ってなにが違うの?

伶奈 凪紗ちゃんは小学校で道徳の授業があって、その後は?

凪紗 高校で道徳はなかったです。選択ですが倫理の授業はありました。

伶奈 道徳と倫理は教科としてどう違うんですか?

古賀 同じように見えて全然違います。最近道徳が教科扱い(「特別の教科」)になったけど、あれはもともと教科ではなくて、ロングホームルーム的なやつだったんです。テストもなかったでしょう?そして小・中学までで、高校ではやらない。倫理は、現代社会と政治経済と同じ公民科の教科で、公民科の免許をもった先生が教えます。道徳には免許はなくて、だいたい担任の先生に任されていますね。

伶奈 なるほど。

古賀 高校の倫理は、素晴らしい理想の人間像や美談を教える授業っぽいイメージだと思いますけど、実際は古代ギリシャからの倫理・哲学思想史を学ぶ場です。どちらかというと歴史の授業です。
(参考:高等学校学習指導要領解説 公民編 倫理は23頁から)

伶奈 歴史的に倫理や道徳がどう考えられてきたかを知識として学ぶ場なんですね。

古賀 さまざまな思想家がどのように考えていたのか、どのような人生がよいと思われていたのか、その理由も合わせて教えます。そうじゃないと、かなり苦痛な時間になりますから。

伶奈 組み体操の美談より意味がありそう。思想史って知識を与えるに過ぎないですが、そこで得た知識は具体的な場面の判断基準として使えそうです。

古賀 うーん、実生活で生かすことはそう簡単ではないと思います。思想と生き方には溝がある。「昔外国にそういう人がいた」「それに対してこんな批判が出た」というレベルで頭ではわかるけど、自分が完全に一つの立場に惚れてその生き方を採用するなんてこと滅多にないし、必ずどっか自分とその思想家はズレている。ある思想に対して自ら意見したくなるほどでもないしなぁ。

凪紗 へぇーって感じですよね。

古賀 こんなに考えてすごいねぇ、暇だったんだなぁで終わっちゃう。結局関係ないっていうか。

伶奈 古賀さんは、実際どんな工夫をして教えていますか?

古賀 あまり溝がないように、かつ作為的でもない感じかなぁ。実際の生活や教室の中で、どんな風に考えられるかという具体的な例をなるべく出すようにはしています。

伶奈 学校によって扱う教科書が違うし、私立か公立かでも違いますよね。凪紗ちゃんの学校では、倫理はどんな授業ですか?

凪紗 選択授業なのでわたしは実際に受けていないのですが、友達に聞いたところ、自分の意見を出してそれを議論するという授業です。友達はその授業をすごい楽しいって言っていました。テストもある課題に対して各自の考えを書かせて、先生がそれを評価する。評価基準は、いかに先生が納得できるか、理論的にまとめられているか。

古賀 思考や表現の訓練という感じですね。

凪紗 そうですね。わたしの高校は、生徒の能動性や自由を尊重する学校なので、他とは少し違う教育だと思います。自分で何かを作ったり書いたり発言する授業が多いんですが、それは道徳教育にとても大事だと思います。

古賀 僕も生徒に書いたり考えたりしてほしいとは思うけど、いざ「これについて考えましょう」と言ったとして、皆そんなすぐに考えられない。だいたいの学校だと「静かに聞くから、先生がうまく話して」という受動的な姿勢が普通ですよね。楽だし、自分もそうだった。

伶奈 そうですね。高校生ならまだしも小学生に具体的な場面を与えて「この場でAさんは嘘をつくべきか否か自由に考えましょう」は難しいのかもしれません。ちなみに文科省も、小学校の道徳教育を従来の押し付け型授業ではなく「考え、議論する道徳」へ方向転換しようとしています。
(参考:いじめに正面から向き合う「考え、議論する道徳」への転換に向けて

「自分の頭で自由に考える」なんてほんとうにできるの?

古賀 自分で自由に考えるって難しくないですか?

伶奈 どういう意味ですか?

古賀 本当に自由に考えることって実はできないと思います。例えば、高校の授業で「みんなで自由に考えましょう」と言う。で、「人を殺してはいけない」という話になったときに「何度か親を殺そうと思いました」なんて言えないじゃん。そんなこと人前で言うのは怖いし「あいつやべぇ奴だ」と思われる。それがその人のリアルなのに表現することはできない。
みんな自由に考えて意見してるつもりなんだけど、本当は自由なんかじゃないんです。だから、逆に怖いと思います。ある程度「考えている雰囲気」とか「意見を言いました」みたいな形があればそれなりに評価されるけれど、僕は、点数的には悪くても本当に自由に考えた人のほうが偉いと思う。偉いというか、やるなぁと思う。

伶奈 その結果「人は人を殺してもいいときがある」という答えになったとしても?

古賀 そうそう、そうです。

伶奈 リアルで、かつ論理的であればいいですか?

古賀 論理的でなくてもいいと思います。本当にそう感じているのであれば、うまく言えなくてもいい。とは言っても、自分で考え感じていることを言葉にするのは難しいので、「本当に自由に考えることは難しい」をわかってくれればいいかな。

凪紗 少し違う文脈ですが、わたしも本当に自由に考えることは無理だと思います。「自分」というものは、ある高校に所属しているとかある家の一員であるとか、常に何かに縛られている存在。完全に自由になるためには、自然に還るか、自分がどこにも属さない環境に行くしかなくて、でも全部自由な世界でも、結局心は縛られているし、そういう意味で本当の自由はない。これは授業で学んだことですが、本当にそうだなと納得しています。

伶奈 「自由に考えろ」といっても、結局制約された上での自由でしかないということですか?

凪紗 そうですね、考えることにおいて純粋な自由はないと思います。

それでも「考えろ」を言い続けることが道徳の役割

伶奈 でも、その制限された自由の中でも「考える」ことで、今まで気が付かなかった新たな考えが自分の中から出てくることがあります。それは、ある側面では人間が自由だからだし、同時に考えることでそれ以前の自分から自由になるからです。だから「考えろ」を言い続けることが道徳の役割なのかなぁとも思います。

古賀 でも「自由に考えろ」と言われてうまく考えられている自覚があったとしても、実際はうまくいってない。できたとしても、実行できるかという次の問題もあります。だったら、一周回って先生が無理やり「こうしろ」って言ったほうがマシだとも思います。だって、考えたくない人や考えられない人からしたらルールがあったほうがいいでしょう。

伶奈 けど、本当に自分で考えたいと思っている人にとっては不自由で仕方ないわけですよね。

古賀 本当に自分で自由に考えたい人の立場を突き詰めても、結局考え抜くことってめちゃくちゃ難しいし、凪紗ちゃんが言ったように人間はさまざまな属性に縛られています。

伶奈 純粋な自由がないから自由に考えることは無理なのかというと、そうではないと思います。確かに、制約されているという事実からは逃れられることはできない。ただ、その現実を引き受けつつ、その中で、自分にとって最善の行動を見出していくみたいな積極的な自由もあるのではないでしょうか?

古賀 わかります。ただ、結局考えたところで、全員に当てはまるような中立的な立場は出てこないし「これが正しいです」なんて言えないからなぁ。

伶奈 うーん、同じ理由から、先生だって何も言えないじゃないですか。なんで先生は、上から中立っぽいことが言えるんですか?

古賀 それは、システム上?

伶奈 ルールを与えると楽だというのはわかります。指標になるし「親が言ったじゃん」とか「わたしが決めたことじゃないし」と言うことによって「責任」から逃げることができる。

古賀 そうですね。

伶奈 でも、最初の凪紗ちゃんの話もそうですが、小学校で習うルールに従っても、親が違うものを与え、さらに社会が違うもの与えてくる。結局、それぞれの考え(A先生、B先生、C教科書、D教科書、母親、父親、上司など)が点在してるだけで、それじゃあ「本当に正しいこと」を探ることはできません。生徒や子供はバラバラの観点に翻弄されているだけになってしまって、なにが正解だったの?という憤りの中で生きることになりそう。

凪紗 すごくわかります。だから親といつも喧嘩しています。あ、今もしています。

古賀 しゃべるだけえらいなぁ。僕、しゃべんなかったもん。衝突する意志も気力もなかった。

「みんなで話しましょう」はどうですか

伶奈 「自分の頭で考えろ」は難しいのかなぁ。じゃあ「コミュニケーションしろ」はどうですか?何が道徳的に正しいのかを話し合うこともできるし、例えば嘘をついた場合その理由を説明すればいい。

古賀 それはなんにでも言えますか?例えば、約束を破るときは「約束したけど今日はいかなくてもいい?」と言えばいいってことですか?

伶奈 約束していた人がドタキャンした場面で考えてみましょう。「こいつ約束守れない奴なんだ」と早急に判断するのは簡単ですが、ドタキャンした理由を聞く。寝坊であれば、わたしには「なんでいつも寝坊すんだよ」と怒る権利がある。向こうが「ごめん直すよ」と謝ってくるかもしれないし、こっちが「次回はモーニングコールかけるよ」と提案することもできる。寝坊してドタキャンする奴とはもう会わないと決めてもいい。「約束なんてどうでもいいやん、めんどくさかったからだよ」は論外。モラル的に責める権利がある。

古賀 なるほど。

伶奈 コミュニケーションのおかげで許せる場面も出てきます。「人の看病をしていて連絡ができなかった」とか。「約束を破ってはいけない」だけでは何の判断もできない。意図や理由を明確にするためにはコミュニケーションが必要だと思います。なので「話しましょう」が大事かなと思います。

古賀 それを学校の道徳でやるべき?

伶奈 そんな気がしてきました。

古賀 最初の凪紗ちゃんの話はどう?正直で超いい子だったのに、家で「正直すぎるのはダメ」と言われる謎のやつ。日頃から「わたしは先生から嘘をついちゃいけないって言われているので正直でいます!」って周りに言えばよかったってことですか?

伶奈 うーん、そうではなく、学校は最初から何も教えず「嘘とは何か考えましょう」として具体例を与えるだけです。そういう時間を設け、生徒は嘘をついていい場合とダメな場合を徐々に学んでいく。

古賀 大学生ならそれでいいと思うけど、小学生と対話して「どういうときに嘘ついていい?」と聞くのはなぁ。

伶奈 難しいですか?

凪紗 議論しなきゃいけないんですもんね。

古賀 そういう風に子育てとかできる?

凪紗 わたしはやってたんですけど、お母さんがめんどくさいって。

伶奈 凪紗ちゃんが、やってたんですか?母親に?

凪紗 はい。お母さんと話し合おう議論しようと思って。けど、親が放棄するんですよね。「めんどくさい」「これはこうだから従いなさい」って言われる。今も言われ続けていますけど。それで三ヶ月くらい家出しましたね。

古賀 すごいなー、僕はすぐ負けちゃう。二日くらいで帰りそう。

古賀 親としても大人の信じていた常識を攻撃されると怖いですよね。話し合うほうがいいとわかっていても、先生や生徒、親や子供間だと「めんどくさいなぁ」「時間かかるなぁ」という空気が漂う。友達同士でもそうです。
教育は効率が大事なんですよね。わずかな時間で、どれだけの人数にどれだけの知識を与えられるかという路線に立っているから、バシっと言ったほうが楽なんですよね。

道徳は、経験から学べるのか?

凪紗 幼稚園や小学校低学年はまだ親や先生の管理が必要だけど、高学年くらいからは、考える力や聴く力、話す力がつくと思います。だから、話し合うことの意味はあると思います。
わたし、幼稚園の運動会で「凪紗ちゃん口くさい」って言われたんですね。でも「あーごめんごめん」って感じで、全然傷つかなかった。そのとき親に「〇〇ちゃんに口くさいって言われたー」って言ったらしいんですけど、そのことを親が覚えていて、私の受けたものと違う印象をもってる。小さい子は正直すぎて、言って良いことと悪いことの基準がわからないんです。成長するにつれ、自分や他人の痛みがわかるようになると思います。
でも幼稚園のときもハブられたりシャベル取られて悲しかったな。「悲しみ」は理解できていました。

古賀 じゃあ、傷つくから言っちゃダメなのかな?

凪紗 そうですね。実際に親に怒られたり傷ついたり、経験することで、よいことと悪いことがわかっていきます。「経験」で得るものはありますね。

伶奈 もし、痛みや悲しみから道徳が学べるなら、わざわざ学校で教育しなくてもいいかもしれない。誰かがいじめられているのを見て「かわいそう」と思うとか、ハブられて悲しかったから自分はやめようとか。そういう感情の学びで十分とは言えないですか?

古賀 経験させるだけで十分ですか?

伶奈 はい。その経験のために学校という場で共同生活させる。

古賀 うーん、でも例えばいじめを経験して学ぶことになると結構ハードじゃないですか?しかも、三日間いじめ体験コースとかでは本当のいじめはわからない気がする。だったらもう、説教くさくても「いじめはダメ」って言っておいたほうがいい。
道徳や規則がある理由は、基本的に人間がそれをできないからですよね。できるなら言う必要ない。教えるとしたらむしろそのことかな。これは倫理っぽいです。

凪紗 「いじめはダメ」ではなく「いじめは犯罪だから訴えましょう」という教え方のほうがいいという話を聞いたことがあります。法規制があるものに関してはそういう教育するのはどうですか。

伶奈 いじめとか恐喝とかはそれでいけるかもしれません。けれど「約束を守るべき」は?

凪紗 「空気よめ」の法律もないしなぁ。

伶奈 いじめや殺しといった客観的基準が設けられているものについてはそれでいいと思うんです。「モラルの問題ではなく法律の問題です」と言う。問題は、最初の凪紗ちゃんのようなモラルとモラルの衝突(「正直でいろ」vs「空気読め」)が迫ってきた場面だと思うんです。これはどうすればいい?

凪紗 コミュニケーションですかね。

古賀 うむ、難しい問題ですね。

先生に道徳を教える資格があるのか?

伶奈 話が変わって最初の問いに戻りますが、先生も親も人間じゃないですか。人間が法に縛られることは理解できますが、教科書や親や先生が道徳を押し付ける資格や権利はない気がする。

古賀 誰にもその権利がない?人間のために然るべき機関が必要だとはなりませんか?

伶奈 わかるんですけど、でも条件があるはずなんです。まだそれがわからないんです。上に立つものが権威性や特権性を発動させて、道徳やしつけとして「あの子無視しなさい」とか「隣のクラスと競いましょう」って言った場合どうなるのかな、と。

古賀 道徳って「正しいルール」を教えているわけではなくて「守らないと社会で生きづらいよ」と経験的に教えているだけだと思います。

伶奈 教科書もですか?

古賀 そうです。僕もずっと哲学をやってきて、今は高校で倫理を教えているけど、わからないことばっかりです。学校には道徳の免許を持った専門家なんていないのに「道徳」の授業があって、実は先生も家庭も何もわからない。言う方も聞く方も何が正しいかわからないんです。けど、正しいかどうかは比較的どうでもよくて、大事なのは「社会で生きやすい」ことです。変人に思われないようする、身内を困らせることがないようにする、そういう「生き方」を教える。

伶奈 それを人生の先輩として、経験に基づいて教えるのが道徳?

古賀 自分も小学生のときこういう経験したから、巡り巡ってこう言えるなぁ、みたいな感じで。

伶奈 うーん。少し頼りない先生ですね。

古賀 でも、それなら言う資格も意味もある気がする。「空気読むと社会でいいことあるよ」と経験に即して話す。
ただし問題なのは、この言明が「空気読まない奴はいじめられて当然だぜ」ということに加担しちゃってるということです。先生が当然を広める側に立っちゃうのはまずい。誰かの鼻毛が出てたとして、「あいつ鼻毛でてるぜ」って影で笑うんじゃなくて「鼻毛出てるよ」とか「切って来なよ」とか言った方がいいことも絶対ある。「鼻毛出てるよ」って言うと浮いちゃうからみんな恐れて言えない。でも言うことが一番友達思いだったりもします。冷静に考えてみんなが言えないことを言える人のほうが、僕は偉いなぁ、いいなぁって思う。

凪紗 めっちゃわかります。

古賀 だから「何でも言えることもすごいんだよ」とどっかで言える道徳の授業じゃないとだめだと思います。「空気読むと社会でいいことあるよ」っていうのは、それ以外が間違いという意味じゃないですから。とりあえずそうしてれば他人ばっかりの社会の中では比較的楽らしいぞ、っていうだけで。

道徳は、普遍的な正しさを目指しているのか

凪紗 経験についてですが、経験は時代によって変わります。例えば、お母さん世代は高卒で簡単に就職できたけど今は大学卒業しないとできないし。
仮に普遍的なものがあったとしても、時代をまたいでそれを自分の経験と交えて教えることは難しい。結局全部相対的かもしれません。「空気読め」はすごく日本的なものですし。国や時代によって自己主張の程度も違います。ドイツ留学中の語学学校で、授業中に自分のことばっかり話す学生がいたんです。けど、それを受け入れている教室があって、日本ではありえない光景でした。絶対的な正しさはないと思いました。

伶奈 道徳もですか?

凪紗 はい、時代と場所に左右されるし、絶対に変わらない正義みたいなものはないと思いますね。

伶奈 「人を殺してはならない」、これはどう?

凪紗 これも状況によりますね。正当防衛の場合は例外が設けられるし。

伶奈 そうなると、道徳は各自の経験や観点に基づく相対的なものになりそうですね。それだと親や先生が何か言っても「お前が勝手に言ってるだけだろ」とはならないですか?

古賀 「自分の育った環境的にはこれこれは正しいと思う」しか言えないと思います。なので、実際教える側にかなり危なさがあります。

伶奈 「自分の経験に基づいているにすぎません」という前置きが必要になりますか?その上で「それでもわたしはこっちの立場をとります」と教える。教えるというかもう「アドバイスする」しかない。

古賀 「一般的にこういう風に考えられていますけどどうですか?」的な提案ですね。

伶奈 だけど、家庭や教室という場が提案させない権威的な力を持っていることも事実です。教科書の権威性もバカにできない。だから「親や先生が言うから正しい」という雰囲気を子供や生徒が感じ取ってしまいます。凪紗ちゃんが「正直でいなさい」に従って生きていたのも、それが正しいと思ったからだし。もし絶対的な正しさがないのだとしたら、まず先生がそれを言う必要がある気がします。

古賀 けど最初にそれ言ったら、「道徳の時間いらなくね?」ってなるから、最後に言う?

伶奈 うーん(笑)。

先生は「代表」なんだ

古賀 やっぱり教室には権力関係があって、それは先生の方が量的に経験が豊富だから。

伶奈 その権力関係は仕方ない?

古賀 生徒からは卑怯に見えるかもしれないけど、先生って社会の圧倒的大多数を代表しているだけです。先生は「代表」なんです。

凪紗 先生って代表の自覚あるんですか?

古賀 自覚がなくても、よっぽど変な生き方してない限り、自然と代表しちゃってる。年上だから威張っていいわけではないけど、冷静な生徒は「この人はいま社会の大多数の意見を言ってるんだな」て思ってくれる。

伶奈 だったら最初から「大多数の意見に過ぎません」と言えばいいと思います。生徒は、真実じゃないかもという姿勢で向き合わないから、危ない。

古賀 「多数派の意見にすぎません」って書いてある教科書っていらなくない?

伶奈 だから、いらないんです。

古賀 それなら、少数派の意見ばかりの教科書があると面白いかもしれません。「デートで行ったレストランでも、まずいと思ったら正直に言うのがこれからの二人のためになります」とか。生徒は、「ああ、そうそう、同じ事考えてた」という共感を得られるかもしれないし、逆におかしいと思うなら議論もしやすいでしょう。そうすると「あー、そういう考えなんだ知らなかったわ」とか「ようやく理解してくれたか、でもそっちの考えもすごい分かる」ってお互い理解しあえるかな、うまくいけば。

嘘をつく自由がないとダメなんです

伶奈 えっと、学校で「嘘をつくべきではない」とか上から押し付ける教育の問題はなんでしたっけ?
国の教育目的はよくできた人を生むことなので、ちゃんと道徳的に振る舞えて規則を守る人が量産されたほうがいい。それを目指すことは別に変なことではないですよね。わたし自身これに賛成しているわけではないですが。

古賀 うーん、北朝鮮的な感じ?学校に体罰室つくるとか、そういうシステムがあった方が結局は社会がよりよくなるという発想はたしかにある。

伶奈 いままで、考えることや話し合うことは難しいという話になりましたが、同時にそれは危険なことでもあると思うんです。時に個人の自由は、教育と矛盾する。

古賀 実際、全体主義を理想としていた時代や国もありましたね。基本、考えるのって何となくだるいし、話し合いも面倒。だから変なやつはぶっ叩くかどっかに収容するかしてれば全体がキレイに一丸となって何か目標を達成できそうな気がする。でも、それを推し進めると「自由」はなくなる。なくなるものがでかすぎる。とはいえ、みんなが嘘をつく可能性や自由を持つめんどうな社会より、誰も嘘をつけない社会のほうが幸せなのかなぁ。

伶奈 上からしたら管理しやすいけど、個人は幸せじゃないと思います。強制されたところで人間は内部で考え続けられるので、自己分裂して苦しくなる。生きるのが辛くなります。そんな個人の集合は社会として機能しないでしょうね。

古賀 ということは、時々嘘つかないといけないよね。嘘をつく自由がないとダメなんです。

伶奈 それ、先生が言ったらまずいですよね。

古賀 裏テーマとしてやるべきですよね。というか倫理は裏テーマをやりやすいんです。学校を監獄と同じだって言う思想家もいるぐらいだし。こういうのをはっきり言っちゃうとクビになるだろうから、思想を紹介するふりして裏テーマをやる。倫理では、変な事でも思想家の助けを借りて考えていいんだっていう安心感はあるかな。でも倫理に裏テーマをやる面白さがあるかぎり、道徳では表をやってほしい。なんか無茶苦茶な事いってますね。

伶奈 無茶苦茶だけど、面白いです。凪紗ちゃん、最後に何か言いたいことありますか?

凪紗 うーん、やっぱり、みんなで意見言い合って一人一人が自分なりの答えを導き出すこと、これが道徳で大事だと思います。もちろん、自分の意見を持ち発信することはすごい難しいことだと思います。いじめられたり嫌われたりするから。だから、せめてどうにか自分の頭の中で考える。それを続ければ、考えが豊かになるかなって。小学校から自分で発信する勇気を育てる。そうしないと思春期や大人になってコミュニケーションがとても難しくなります。あとは、先生と生徒が同じ立場にたって考えられるというのが一番いいと思う。そういう教育であればいいかな、と思います。

伶奈 まだまだ話は尽きませんが、今回の対話はこれで幕を閉じたいと思います。凪紗ちゃん、古賀さん、本当にありがとうございました。

対話した日 2016年11月27日
Photos  by Aica Tashiro 

今回の対話から出てきた問い

先生は経験から、社会の「代表」として道徳を教える一定の資格(必要)があるという議論になった。しかし、すべてが相対的で時代に左右されるのだとしたら、先生や親と子供世代には常にタイムラグが生じるため、教える道徳は時代遅れになってしまう。そうなれば「あなたの世代はそうだけど」で終わりだ。しかし現実はそうなっていない。
「絶対正しい」道徳がなかったとしても、時代をまたぎ、共通に理解され採用されうるなんらかの「正しい」道徳はあるはずだ。

▶︎もしあるとしたらそれはどんな道徳か?どんな基準で(絶対でないにせよ)「正しい」のだろうか?

 


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