Dialog

“クラシックはダサい”を覆す2人の若き音楽家。なぜ、いまクラシック音楽なのか?

なぜ、いまクラシック音楽なのか。

東京で活躍するピアニスト三好駿(みよしたける)さんと、ザルツブルクの音楽大学で学ぶ指揮者水野蒼生(みずのあおい)さんとともに「古典の意味」そして「クラシック音楽の意味」を語り合う。

クラシック音楽は、直訳すると古典音楽。さまざまな批判を乗り越え、あらゆる時代を生き抜いてきた音楽だ。芸術のジャンルの中でも、音楽は特殊である。生涯ゴッホの作品を模写し続ける画家はいないが、クラシック音楽家は人生を賭けベートーヴェンの曲を再現し続ける。

絵画の場合、画家本人が創ったものだけが本物となる。しかし音楽は、書かれた楽譜が作品そのものではなく、演奏家によって再現されなければ後世に残ることなく消えてしまう、孤独な芸術だ。古の巨匠たちが紡ぎあげた音を模倣する「再現芸術」が、音楽という芸術の根幹をなしてきた。

クラシック人気が低迷する中、昔の作品をいま演奏する意味はどこにあるのか? なぜ2人の若き音楽家はクラシックに愛を注ぐのだろうか?

左から伶奈(nebula)、指揮者の水野蒼生さん、ピアニストの三好駿さん

なんで、古典を学ぶ必要があるの?

伶奈 哲学を志す人はプラトン、英文学だとシェイクスピア、音楽であればバッハに精通していることは当然だといわれる。「すごい」と賞賛される古典を、読め、見ろ、聴け、と。なんとなくわかるんだけど、昔の人が創ったものに触れることがなぜそんなに大切なんだろう?

三好(敬称略)古に学んだ方が近道だから。前進したい、人生を豊かにしたいと思った時に、学んでおいた方がよりよいと思う。

水野(敬称略)作家を夢みる人が一冊の本も読んだことがなければ本を書けないように、ゼロから開拓するよりまず昔の人に学んだ方が圧倒的に早いよね。

伶奈 長年人々に愛され参考にされ続けて来たものが古典だっていえるかな。

水野 人間は「生まれる前のことを知りたい」という欲求を持つ。自分が携わる分野の、自分が存在している場所の過去がすごく気になる。古典を学ぶのは知的欲求からきてると思う。

伶奈 「わたしより優れた人がいるから知りたい」という謙虚さに古典を学ぶ姿勢があるのかな。創り手の「いつか超えてやる」という気持ちと「すごすぎて超えられない」というジレンマの中でさまざまな作品が生み出されたのかな、と。

三好 知を深めることは、楽しいことでもあるよね。極端に言えば、反古典主義は反知性主義になっちゃうから危ないと思う。

伶奈 たしかに今は新しいものがもてはやされて歴史の重みが軽視される時代。「ブラームスなんて微塵も知らないけどオーケストラ作れるぜ」って感じ。

水野 生き残った年数に価値があるとも思う。時代を超えて残っているわけだから、10年と100年、年数で価値は変わる。SNSがない時代にヒットチャートで1位を100年取り続けた作品の価値のほうが断然高い。

伶奈 昔流行った曲を10年後に聞くと「懐かしい」「古い」と感じることがある。「いま存在していない」という感覚かな。でも、例えばブラームスを聞くと、現にそこにある感じがするし、その都度新しい経験がある。だから、古典は時代を超えているといえるのかも。それが100年評価されてきた古典と1年で廃れる曲の違いかな。

三好 たしかに、ベートーヴェンの次世代の人が彼と同じことをしても売れないし、クラシック音楽は前のものを壊して創造されてきたんだよね。ベートーヴェンでさえそれまでの音楽を壊したって言われたし。常にその時代に最先端だったものが古典になってきた。

伶奈 単純に古いものが古典ではない、と。でも「古典はこうあるべきだ」という固定観念が根強い気がして。だから「クラシックは古いもの」というような認識が広まるんだと思う。でも例えばヨーロッパの教会のミサってバンド演奏もあるしすごく自由な気がする。

水野 当時のバッハのテンポって今と全然違ったらしいのね。古典も実は進化していて、現代に馴染むように残すべきなんだよね。伝統に固執するのではなく、時代に合わせて古典を継承していこうとする姿勢が大事。

ザルツブルク・モーツァルテウム大学で指揮を学ぶ水野蒼生、23歳。今年、O.E.T(オーケストラ・アンサンブル・東京)を結成。

残る曲と消えていく曲の違いって?

三好 いまは情報過多だから、あらゆるところで音楽が配信され、転がってる。けど、昔はある程度いいものじゃないとそもそも世に出してもらえなかったということも、古典が残った背景にはあるよね。

水野 昔だって溢れるほど曲があったわけで。その中からいいものだけが残ってきたんだよね。

伶奈 たしかに。例えばブラームスと同時代に、同じような交響曲を作曲したズラームスがいたとして。ズラームスは評価されず、ブラームスだけ残ってる。何が違ったんだろう?

三好 「境遇」と「タイミング」はあるよね。「曲のクオリティ」だけではないと思う。

水野 ヒットする人は「ストーリー」を持つアーティスト。みんな物語を持っているけど、例えばベートーヴェンが聴覚障害を患っていたこと、それでもなお第九を作曲したことなど壮大なエピソードが大事。実力よりも、マーケティングがうまい人が生き残る。ズラームスは下手だった(笑)。

伶奈 だけど、それは現に「ベートーヴェンの曲がいい」からその「ストーリー」が生きるのであって、ひどい曲だったら「哀れな人生でしたね」ってスルーされるだけだよね?

水野 じゃあ「音楽のクオリティ」と「人々が語り継ぎたくなるエピソード」の両立が大事なのかな。

三好 よく東京でコンサートに行くんだけど、とても素敵なコンサートがガラガラだったり、「これ?」って思う演奏が注目されてて驚く。たしかにマーケティングは非常に大事なんだけど、最終的に「お涙ちょうだいストーリー」に行き着いてしまうことが多々ある。だから「音楽自体のクオリティ」についてもう少し考えないと。

伶奈 「音楽のクオリティ」ってなんだろう?

水野 芸術体験は初めて触れたときのインパクトが大きいよね。絵画を観て「うおおおお」と感じる衝撃とか。だけど、音楽は他の芸術と違う。ライブに行くと「新曲やりまーす」よりも、みんなが知るヒットソングが断然盛り上がる。いい音楽って、演奏技術はもちろんだけど、「センセーショナルなファーストインプレッション」と「何度も聞きたくなる中毒性」の2つが両立してることだと思う。変拍子でキメがかっこいい曲は最初「かっこいい!」って思うんだけどすぐに飽きちゃうんだよね。結局ヒットソングにはなれない。

伶奈 何度聴いてもいいと感じるものと、「もうこのアルバムいっかな」って消費しきっちゃうものがあるよね。

25歳の先鋭的ピアニスト、三好駿。ライブハウスでクラシック音楽を奏でる企画「東京ピアノ爆団」での演奏。

作品の価値ってどこにあるの?

伶奈 作品の価値についてもう少し考えたいな。「音楽のクオリティ」という「その曲自体が持つ価値」と「ストーリー」や「社会的な評価」といった「周囲が付与する価値」のバランスはどのくらい?

水野 わたしたちは耳に馴染んだものをよいと感じる。だから「何をいいと思うか?」は、生まれたときからの環境と経験によるものだと思う。長調を明るく、短調を暗く感じるのもまさにこれで、音階を知らない人が聞いたら感じ方が全く違うし、同じ音だとしても使っている言語によって異なる。

伶奈 じゃあ、全く異質な音階と言語を持つ、文化の違う国の音楽を初めて聞くとき、いいとは思わないってこと? 環境に左右されず「よくわからないけどいい!」と思えるものが本物な気がする。そうだったら、その曲自体に価値があると言えそう。

三好 僕も曲の価値は、9割が周りからの付与だと思う。「いい」も「美しい」も同じ。

水野 でも、それだと限界がある気がしてきた。どこでその「美しさ」「よさ」という共有できるものは生まれたのかな。生まれたときは「美しさ」は知らなかったし、教育で「これが美しいです」って習ってない。けど、作品に対する「よさ」は共有できるし、大人数のいいと思うものが一致したから古典が存在する。だから、こっち側からの付与だけじゃない気がする。

伶奈 たしかにね。美しいと思う時って「能動的な経験」ではなくて「受動的な経験」じゃない? 「これを美しいと思った」ではなくて「美しいと思わされた」というか、対象が迫ってきて逃れられないような、価値が訴えかけてくる感じ。もはやそのとき美の主体は作品に存在しているともいえる気が。

水野 あと、いいと思うものに対しては、「こうだから美しい」という理由付けができない。「本当にいい!」に「なんで?」って聞かれても言語化不可能で説明できない。

三好 そうだね。ふつうは、美しいと思う感覚つまり美的感覚を疑わない。そしてそういう「これだ!」っていう芸術体験を一回でもしたら、だんだんいいものがわかるようになると思う。

水野 それが、センスを磨くということかな。

伶奈 たしかに、絵画を見れば見るほど、音楽を聴けば聴くほどいいものがわかってくる。初めてクラシックを聴く人は、奏者による演奏の違いはわからないけど、何度も聴くと細かい差異が見えてきて感性が研ぎ澄まされるよね。

三好 一流のアーティストは、畑違いの芸術に触れようとするよね。音楽家が絵画鑑賞をするとか、視野を広げようとする。

水野 だから、センスは知識量に左右されると思う。センスを磨きたかったらさまざまな芸術の知識を蓄える必要がある。

伶奈 センスが悪い人は「無知」だっていえるかもね。けど「お前の趣味悪いよね」って変だよね?  趣味は真偽や正不正が問えない好みの問題だし理由付けもできない。とはいっても、なんだかいいセンスと悪いセンスがある気がするし、現にこういう表現するよね。

三好 うん、だから古典は「いい趣味」なんじゃないかな。

水野 けど、古典の知識があったところで必ずしもセンスがよくなるとは限らない。知識があることは選択肢があるってことに過ぎないから。だから、そこから選び取る能力が別に必要。それは「直感」か「経験」か、なんだろう。

伶奈 それこそ、持って生まれた才能? 18世紀頃には芸術は天才がやるものだって考え方が主流で。世界中の曲を知っていたとしても才能がないと難しい世界なんじゃないかな。

三好 たしかに、モーツァルトと同時代に、誰かに同じ境遇や同じ経験を与えたとしてもモーツァルトにはならない。天才はなるべくして天才になっているよね。

なぜ、いまクラシック音楽なのか?

伶奈 クラシック音楽って「そのまま楽譜なぞってるだけじゃん」って思われがち。しかも実際流行ってないしどちらかと言えばダサいと思われている。「新しいこと」や「個性」がもてはやされる時代に、なぜクラシック?

水野 僕たちだけじゃなくて、ベートーヴェンだって初演でモーツァルトのアリアを演奏してたんだよね。音楽は他の芸術と違って誰かが演奏し続けないと後世に残らない。そういう性質が、僕たちを演奏に駆り立てるんだと思う。

伶奈 なるほど。

水野 今ってさまざまなジャンルの音楽がヒットソングを毎年出す。言いたいのは「本当にそれが新しいのか?」ってこと。ぜんぶ似たり寄ったりで結局廃れるし、新しい曲って新しくないんだよね。ASIAN KUNG-FU GENERATIONが、2004年に出した『ソルファ』っていうアルバムを2016年に再録音したのね。僕は新しい曲を作るよりも、この再録のほうがずっと意味があると思って。人は成長するんだから変化が見えるし、ここに再現芸術をやる意味があるのかなと思った。

三好 再現芸術っていわれるけど、僕たちは単純に再現しているわけではないのだと思う。僕は「追創造」って言ってるんだけど。 無からではないけれど、その都度その時代の中で創造するもの。

伶奈 楽譜にはすでに音も強弱もテンポも全部のってるから、クラシック音楽は緑を黄緑にすることは許されても、ピンクにしたら怒られる世界だよね。でも、真っ白な紙に「自由になんでも書いていいよ」って言われるときの自由と、一つの枠だけまだ塗られてないほぼ完成した絵を渡されて「最後のこの枠を何色にしますか?」って言われた時の自由、どっちが自由だと思う?

水野 最初の自由の方が自由って思われがちだけど、僕は、最後の一色で発揮される個性が本当の個性だと思う。

三好 クラシック音楽の自由は制約の中での自由。「これだ!」という色はすごく微細なものだよね。だからこそそこで発揮される個性は、丹精込めた大切な個性になる気がする。

水野 演奏する時は、あらゆる角度から曲を読む。その時の作曲家の心情や時代背景、年齢や人間関係、作曲技術のくせや方法などを読み解いて解釈を詰め込む。そしてその解釈の選択肢の中から「どの表現を採用するか?」を考える。ここに僕の個性が生まれる。だからクラシック音楽はいわゆる新しい音楽ではないけど、自由度はすごく高いと思ってる。

三好 僕はピアニストだけど、自分の勝手な個性を曲に付加しようと思ったことは一度もない。個性は聴衆が評価することだから、いくら自分で決めようしても本当は何もできないし、だいたい奇をてらいにいくと失敗しちゃう(笑)。

クラシックコンプレックスを越えて

三好 男の子だったし、小さい頃はクラシックをやってることがコンプレックスだった。17歳頃からバンドをしてたけど「クラシックのピアニストです」って言うのが嫌で。でも後からこれが被害妄想だったことに気がついた(笑)。

水野 僕は中2でクラシックにハマって、家ではバイオリン、外ではモーツァルト聴きならがスケボしている少年だったから、クラシックコンプレックスは全くなかった。周りも面白いねって言ってくれる人がほとんどだった。クラシックがダサいんじゃなくて、みんなが知らないだけだと思う。

三好 でも、そもそもクラシックがダサいからみんな知ろうとしないんじゃない?

水野 問題はダサいかどうかじゃなくて、いまの日本の時代と環境にそぐわないことかも。そもそも西洋文化としてその地に馴染んでいたものだから、満員電車でブラームス聞く気にならないじゃん。僕の住むオーストリアでは、木曜11時のコンサートに2000人が満員になる。若い人もいて、生活と文化がリンクしているんだよね。

三好 たしかに、クラシック音楽という西洋音楽は輸入されてきたものだし、海外の高尚な芸術だというイメージが拭えない。だからこそ知らない人は「クラシックなんてわからないよ!」ってなりがち。

水野 市民におけるコンサートホールの役割も全然違う。西洋のオペラハウスは、ブルジョワのコミュニティセンターみたいなもので、休憩時間は交流の時間だった。モーツァルトの時代は、物や野次を飛ばしながらオペラ鑑賞してたっていう話もあるし、本当は、綺麗に座って聞かなくてもいい。本気で聴きたいときの沈黙はいいんだけど、形式的な沈黙とか本当にいらないよね。

伶奈 最後になりますが、2人の熱い想いをどうぞ。

三好 音楽は聴衆ありき。一人でも聴いてくれる人がいる限りは、僕は弾き続けるし、そういう気持ちが音楽家には必要だと思う。僕がクラシックをやり続ける理由は、いまだに誰も正解を持てていないから。「完成されたもの」が実現する前にみんな死んでしまう。実はクラシックをやることに格別こだわりがあるわけではないから、100点とれたらやめて違うことしたいよ(笑)。けど、一生とれないんだよなあ。

水野 僕が命をかけてやってる音楽を知ってほしいし、そのために僕はクラシック音楽の入り口になりたいと思う。一生かけてもやりきれないところにクラシックの奥深さがある。他のジャンルだったら、おじいちゃんになったら飽きちゃうと思う。だから僕もたぶん死ぬまで続けると思う。

伶奈 2人とも、本日はどうもありがとうございました。

All Photos by meme


「クラシックを若者に広げたい!」という想いで水野蒼生が立ち上げたオーケストラO.E.T。結成記念コンサート”Opening”が2017年7月20日、渋谷区総合文化センター大和田 さくらホールで開催される。チケットは自由席3000円。クラウドファンディングへの挑戦 が無事成功、現在イープラスでチケット発売中

初演は、水野さんが敬愛する作曲家ベートーヴェンの作品をお届け。オーストリアと日本で活躍する若き音楽家の熱い音を是非、生でお聴きください。購入はこちらから。

【O.E.T 結成記念公演 “Opening”】

2017/07/20 (木) 18:30開場/19:00開演
渋谷区文化総合センター大和田 さくらホール
チケット自由席 ¥3000

オール・ベートーヴェン・プログラム
序曲「レオノーレ」第1番 ハ長調 Op.138
ピアノ、ヴァイオリンとチェロのための三重協奏曲 ハ長調 Op.56
交響曲第3番「英雄」 変ホ長調 Op.55

演奏:O.E.T(オーケストラ・アンサンブル・東京)
ヴァイオリン独奏:マキシム・ミシャリュク
チェロ独奏:三井静
ピアノ独奏/指揮:大井駿
指揮:水野蒼生


水野蒼生
1994年生まれ。幼少期からピアノを、12歳でヴァイオリンを始める。2013年夏にオーストリア国立モーツァルテウム音楽大学にて催されるサマーアカデミーで、指揮をペーター・ギュルケ氏に師事。ディプロマを会得。2014年秋から同モーツァルテウム音楽大学に入学。オーケストラ指揮と合唱指揮を専攻。2016年秋よりブラウナウ・ジンバッハ・楽友協会の副指揮者に就任。東京ピアノ爆団主宰、クラシカルDJ。オーケストラ・アンサンブル・東京(O.E.T)代表。これまでにオーケストラ指揮をハンス・グラーフ、ブルノ・ヴァイル各氏に、現代音楽指揮をヨハネス・カリツケ氏に、合唱指揮をカール・カンパー氏に師事。

三好駿
1992年生まれ。4歳からピアノの勉強をはじめる。高校卒業後に渡欧、ベルギーのナミュール高等音楽院にてピアノと室内楽を専攻し研鑽を積む。現在、国内外各地でピアニストとして活動している傍ら、作曲やプロディース、音楽イベントの企画を手がけてる。パプア・ニューギニアのイーストハイランド州において約2ヶ月にわたって演奏活動を展開、中国では日中友好のための両国学生による団体”Next Vision Aisa”テーマソングをプロデュース、英詞を含む作詞と作曲、トラック制作、北京での合唱団の指導及び録音監督、編集作業のすべて行う。また、水野と共に『東京ピアノ爆団』を立ち上げ、過去2回の公演を成功させている。